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生まれて、済みません

今日は祝日だったので、義妹がケーキを持って昼前にやってきた。アルツハイマーの父親の面倒をいつも姉に任せっ切りにしているので、たまには私が世話をするから、休んでくれというのである。

義妹と僕たち夫婦は居間のテーブルを囲んで座り、日頃の父親の様子や東京に行っている息子たちの話をした。義妹はそんな話をしながらも気を張っているようで、部屋の向こうから声や物音がするとすぐに席を立って何度も父親を見に行き、コーヒーを淹れるやら、話を聞くやらして世話を焼き、少しでも役に立とうとしている様子であった。放って置くと言うと語弊があるが、僕たち夫婦にとって父親の妄想や奇行は毎日のことで、その行動に慣れてもいるし、予測も立つので、そんなに心配もしないでいるのだが、義妹は緊張し気を配っていて、腰が落着かない様子であった。心優しい義妹である。

午前中、父親の妄想は激しく、時計の顔をした男や白装束の一団が乗り込んできて脅されるやら大金を取られるやらしたらしく、大変だったようで、昼食が済むと、眠りこけて、物音を立てることも一人で喋ることもしなくなった。妻が洗濯物を取り入れながら、
「太宰治のドラマがあるみたいですよ」と教えてくれて、僕はテレビをつけた。祝日の特別番組のようだった。僕たち三人は居間のソファーに身を沈めて、若い頃に読んで憶えた太宰の小説の話などをぽつりぽつりと挟みつつテレビの画面に向き合った。ドラマは誰かの原作を基に仕立てられたものではないようで、事実をつなげてはあるもののテーマ性は薄く、太宰の女を巡る酷さばかりが強調されている気がして、僕は見続けることが苦しくてかなわなかった。テレビのスイッチを入れてしまったことを悔やんだ。しかし、切ってしまうこともまた、できなかった。僕は暫く見ては部屋を出、また戻るという忙しないことを繰り返した。義妹は最初から「こんな気障な男が現実にいたとしたら、傍に寄るのも厭だ」などと独り言のように呟いていたが、玉川上水で心中を遂げた山崎富栄が出て来ると、義妹は「酷い男」と、吐き捨てるように言うのだった。「こんな男と心中しようなんて、私は絶対思わない」。まるで現実の誰かに対して言っているかのように、義妹は怒っていた。夫どころか、恋人にも親戚にさえもしたくはないと、軽蔑を超えて憎しみに近い勢いだった。僕は、「ごめんなさい」
と言った。義妹は怪訝な顔で僕を見つめると、
「何故、お兄さんが謝るのですか」
と、頬に笑みを湛えながら訊いて来た。
「お兄さんは、太宰じゃないのに」
そう、僕は太宰治ではない。しかし、自分自身でも奇妙なことに、僕は何故だか心苦しくて、後ろめたくて、胸が痛んで、申し訳なくて仕様がなかったのだった。確かに僕は太宰ではないが。

そしてドラマはやっと、遂に終幕を迎えて、「桜桃」の朗読が流れた。若い頃から何度読んだか知れない場面である。太宰の文章は信じがたいほどに悲しく、美しく、僕の心を貫き通し、絞り上げてきた。モルヒネを打ったことなどありはしないが、ある種の陶酔が僕の胸をきりきりと締めつけてくる。「子供より親が大事と、思いたい」。太宰の文章は麻薬のように僕を酔わせる。頭の奥が痺れて、どこか現実でないところに一人立ち尽くしているような思いに包まれる。
「言うに言われぬ哀しみや、優しさや、義や、残酷さや、太宰治は本当に、凄い作家だと思います。でも、これでは、いけません。太宰は本当に本当に苦しかったのでしょうけれど、それによって沢山の人が苦しんだのでしょうね。人間はどこまで行っても人間でしかなくて、イエスになれないのは初めから分っているのですけどね。もちろん、頭の良い太宰は、そんなことは知っていたでしょう ... でも、聖書は正しく読まないといけないのだと思うんです」
妻が、言った。その通りだ。
「ごめんなさい」
僕は、また、言った。
「許してほしいとさえ、言えないね」僕は頭を下げた。義妹は怪訝な顔でまた僕を眺めた。
「お兄さんは太宰ではないでしょう」義妹が言って、それを妻が引き継いだ。
「そんな風におっしゃると、自惚れていると勘違いされますよ」
僕にはもう言うべき言葉がなかった。

また今日も三時になった。「もう飲んではいけません」と言っていた妻は疲れ果てて、ソファーで眠っている。僕はその寝顔を盗み見ながらウイスキーのボトルを取り出してきて、コップに注ぐ。今日も僕は新しい絵を数時間描き、庭の草をむしり、茶碗も洗って、義父や義妹や妻と話もした。沢山の仕事を果たした。だのに、侘びしさと憂愁が纏わりついてきて、僕のすべてを覆うのだ。
確か井伏鱒二が太宰に言った言葉。「生活とは侘しさを忍ぶことだろう」。
そう、その通りなのだ。いや、それより何より、僕の人生に一体何が欠けていると言うのか。一体僕はこれ以上に何を求めているのか。愚かにも程があるとは思うのだ。
「生まれて、済みません」。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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