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人生の受容

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望みは絶たれ、夢は破られ、企ては挫かれる。
信頼は裏切られ、願いは拒まれ、期待は砕かれる。
そして、努力は報われず、忍耐は踏みにじられ、誇りは辱められる。

理解者は、どこにも居はしない。

軽薄さが人々の心を水苔のように覆っているので、
人生は不条理に満ち、過酷で、悲しく、惨めで、侘しく、苦渋に満ちる。

人生とはそんな痛ましい思いを引きずりながら、
ただ意味のないことの繰り返しを繰り返すだけだということを
とことん思い知らされるためにあるようなものだ。
それは風を追うように虚しい。
心は泥濘に沈み、或いは砂のように崩れる。


簡単に言えば、
これが僕の若い頃から変わることなく持ち続けてきた人生に対する考え方である。
本を読み、思い考えて、何とか明るく肯定的になれぬものかとさんざん足掻いて来たが、
この悲観的で否定的な考えは些かも変わらぬどころか、
年齢を重ねるに従ってむしろ深刻さを増してきたような具合である。

他人から眺めれば大した経験もしていない者が、
悲劇の主人公気取りだなと揶揄されそうだが、
僕の意識では二十歳の頃からずっとこのような思いを引きずって、
嘆息ばかりの日々を何とか過ごしてきたというところである。

毎夜々々遅くまで一人で酒を呷っていると、
暗澹たる思いが次第にうねりを増して荒れ狂い、突き上がってくる。
空虚さが襲い来る。

「学生さん、もうどこにも、何処にも行くところがないという意味を、学生さん、お分かりですか」。

『罪と罰』のマルメラードフが馬車に轢かれ、泥まみれになって死ぬ前にこぼす言葉。
僕の求めたことや信じたことや願ったことや努力が「絶望」などと、
そんな重く揺るがし難い言葉に値するとは、僕も考えてはいない。
ドストエフスキーやゴッホの担ったと同じ荷物を背負わされたとしたなら、
僕は三日と生きてはいれないだろう。

人の担ぎこむ荷物はその人自身が選び取ったものであり、
その重さも当人が決めているものである。
この夫のせいで私の人生はこんなにも惨めになったという類の、
まことしやかな嘘に欺かれてはならない。

己の人生は他の誰でもない、自分自身が選び、自分自身が決定してきたのだ。

僕自身が選び取った僕の人生。
しかし、そう考えてはみても、覚悟はなかなか訪れない。

「人間が軽薄でさえなかったら」。

森有正の独白は、
人間精神のもうこれ以上に深くは降りていくことのできない果ての悲しみだ。

「子供より親が大事と思いたい」。

桜桃の種を吐きつつ呟く太宰の言葉。 
だが、この暗鬱な遣り切れなさを三十年も味わわされているうちに、
絶望のその裡にこそ慰めが訪れて来るはずだという考えが
僕の心のうちに少し芽生え始めていることに最近気づかされた。

あまり立派で格好の良いことは言うものではないが、
薄暮の河原にぼんやりと浮かび上がる
枯れた葦や薄の風に揺れている姿を眺めていると、
そのような思いが胸を浸してくる。

「これで好いではないか。いいんだよ、生きていてもいいんだよ」と、

果てしなく高い天から声が聞こえてきそうな気がするのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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