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退職(二)

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

 定年退職の辞令を貰って二日後だ。
数年前に見た「アバウト・シュミット」という映画が思い出される。


 シュミットというのは主人公の名前で、ジャック・ニコルソンが演じている。
映画は、定年を迎えたシュミットが皆から送られて会社を退職するシーンから始まる。

「素晴らしい貢献だった」「有能な社員だった」

との美辞麗句に飾り立てられて、
シュミットは恐らく生まれて初めての至福の時を味わうのだが、
その翌日からの日々はお定まりのとおり、果たすべき仕事も何もなく、
誰かに必要とされることもなく、身を持て余す。
確かに、彼には妻と、(遠方に離れてはいるが)結婚を間近に控えた娘がいる。
会社を退職したことで社会的な地位を失いはしたが、
夫として、また父親としての椅子は辛うじて確保されている。
だが、残念なことに、突然妻が倒れて死んでしまい、
その上妻の遺品を懐かしげに眺めている時に
シュミットの友人が妻に宛てたラブレターを見つけてしまい、
友人との関係も断ち切られてしまう。
残るのは、娘だけである。
だが、重ね重ね残念なことに、
この娘もシュミットに父親として十分な椅子を与えてはくれない。
一緒に暮らしてくれと頼んでも娘は拒み、
あんな馬鹿な男との結婚は止めろと忠告しても、
娘は耳を傾けないどころか反対に怒り出す始末で、
忙しい結婚式の準備を手伝おうと出かけて行っても、迷惑なだけだと断られてしまう。
まったく、シュミットはこの広い世界で誰との関係を持つこともできずに、
一人取り残された、居ても居なくてもいい存在である。
いつ死んだって構わない存在、生きていたことすら誰も知らない存在である。
誰一人彼のことを気にしてくれる者はいない。


 子供時代から大学まで成績優秀で、
会社に入ってからも真面目に働いて貢献し、
それなりに妻を愛し、娘を精一杯の愛情を持って育てて来たというのに、
今や誰も、誰一人として彼を必要とはしないのである。
誰一人支えてはくれない。
誰一人抱きしめてはくれない。
存在の無意味、惨めさが彼を包む。


 映画はシュミットがアフリカの孤児の養父になるという伏線を流していて、
その孤児からの手紙が最後の救いという設定になっているのだが、
シュミットの孤独と絶望はあまりに大きく、
それは救いと呼ぶにはあまりに輝きが乏しく見える。
僕の受けた印象は、まったく、人生というのは
屈辱と惨めさと無意味さだけに満ちているというものだった。
誰にも必要とされず、求められず、そこに居ることに気づかれもしない存在。


 定年退職した男性という人物設定は、
己の存在の無意味さやアイデンティティーの喪失という
神なき人生の根本を考えるのに適している。
人は家庭や地域や会社などに所属し地位を得て、
その中での役割を果たすことによって構成員に認められ、
自己の存在の意義を感じるようにできている。
どんなに高邁な思想や芸術を身の内に持っていようとも、
人は一人ではその自尊心を維持することができない。
自分ひとりで自分の存在意義を手にすることはできない。
一種の超人思想に囚われた『罪と罰』のラスコーリニコフが

「一メートル四方の断崖の上に一人立たされたとしても、俺は生き抜いてやる」

と豪語しても、現実的にはかなえられなかったように、
人は他者との関係の上にしか存在の意味を打ち立て得ないのである。
シュミットが会社を辞め、妻を亡くし、娘から切り離されて、
この世の中で独りぼっちになってしまう姿は、それを例証している。
シュミットは何ものにも帰属しない自分を、
そこいら辺に蠢いている名前ももたない虫にも値しないと感じざるを得ないのだ。
会社も家族も友人もない。
未来もなければ夢も理想も最早、ありはしない。


 しかし、このシュミットを可哀想だと同情してなどいられないのだ。
社会構造が大きく変化し、
僕たちの自尊心が肥大化し偏流してきている現代にあっては、
神とはもちろんのこと人間同士の関係性も極めて希薄になった。
このような現代社会の中で、シュミットが陥れられた惨めな絶望は即ち、
僕たちの絶望なのである。


 忙しい忙しいと、目の前のことの処理に追われて、
仕事や家庭や娯楽や趣味が齎す煩わしさ共々の悲喜で蓋を作って
その惨めな絶望を覗き見ないように隠しているが、
存外蓋はそんなに頑丈ではなく、
いつ壊れてしまうかも分からないものなのだ。
中原中也の「冷酷の歌」が思い出される。


  いづれおまへにも分かる時は来るわけなのだが、
  その時に辛からうよ、おまえ、辛からうよ


  人には自分を紛はす力があるので、
  人はまづみんな幸福さうに見えるのだが、
  人には早晩紛らはせない悲しみがくるのだ。
  悲しみが自分で、
  自分が悲しみの時がくるのだ。


  長い懶い(ものうい)、それかといつて自滅することも出来ない、
  さういふ惨しい(いたましい)時が来るのだ


  嗚呼、その時に、人よ苦しいよ、絶えいるばかり、
  人よ、苦しいよ、絶えいるばかり

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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