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大人になるとは諦めを知ること

 「大人になるとは諦めを知ることだ」

と何かの本で読んで、成るほどうまいことを言うと感心したことがある。
世の親や学校の先生ばかりでなく、
僕たちが普段見聞きする大人たちはこぞって

 「あなたはオンリーワンの特別な存在なのだから、
  好きなように思うように生きるのよ。夢は必ず叶うんだから」

と語って止まないので、この言葉の与える印象は一層強いものとなる。
子供たちに諦めを語る大人は殆どいない。

 だから誰もこの言葉を人生についての全うな評だとは考えない。

「人生最良の日は結婚式の前日と妻の葬儀の二日間である」

というような言葉と同じ類の、
飽くまでも人生を斜めから眺める皮肉屋の台詞だとしか捕えない。

 笑って受け入れられれば好いが、大概は顰蹙と軽蔑を買うばかりだ。
このような表現を建前とは言わないのだろうが、

「結婚は人生の幸福である」

と言うのと同じように、
子供は可能性に満ちているのだから、
夢を持つべきだという強固な社会通念があるので、
皮肉屋以外は誰もそこを刺したりはしないのだ。

その言葉は人生の深い真実を貫いているのだが、
そんなことを子供に言ってはならないと考えるのである。

夢を潰してはならない。
子供の可能性を潰してはならない。
だから誰も我が子に「諦めることは大切なのだ」と言いはしない。

親は明けても暮れても

「夢に向かって進みなさい。
 自分が好きなように生きるのが一番なんだから。
 お前は素晴らしいんだから」

と、子供を煽て、迎合し続ける。

 確かに夢や希望は人に努力を促して、人を伸張させる。
それがなかったとしたら、
人は怠惰に流されて自分自身を伸ばそうとはしないだろう。
夢や希望がこれから大人になっていく子供たちにとって
重要であることに間違いはない。

 だが、我が子の可能性と夢や希望の大切さを信じるあまりに、
それが破れたときには挫折感や屈辱感に襲われて苦しまねばならないことや、
その挫折感の積み重ねこそが
現実の自分自身を認識することに導いてくれるのだということに
人は注意を払わない。

親もまた現実を見ようとはしないのだ。
子供たちの根拠のない自惚れは肥大化するばかりである。  

 斯く言う僕も我が子を王様にしている親たちの姿を眺めて嘆きつつも、
つい最近までそこに潜んでいる大きな罠に気付かないできた。

子供たちに対してだけではない。
三十歳前後の若者にも、人生の半ばを過ぎた中高年にも、
理想に向かって懸命に努力しなければならないと語り、
夢も希望も最早持ちようがないと諦めている人々を、
情熱の欠けた仕様のない奴と断じて憚らなかった。

たとえ八十歳になったとしても明日を望まなくてはならない。
自分で限界を設けてはならない。
人間は望まなかったら、人間にはなれないのだと広言して来た。

そのこと自体は誤っているのではないだろうが、
ただ僕は、肥大化した自尊心が破られた時の
屈辱や絶望のことを考えてみたこともなかったのだ。

褒められ煽てられて、
自分は特別な存在なのだと錯覚し自惚れた精神が
自己実現の夢を叶えられないとき、
どのようなことになるのか、
そのことについては思いつきさえしなかったのだ。

しかし自分の来し方を冷静に一つひとつ振り返ってみると、
叶った夢や望みなど何一つなかったことに気付く。

小中学校を通じての学業成績も、
体育や音楽や図工の評価も、職業も異性との付き合いも趣味も、
望んだことは悉く破れ潰えたことに気づくのだ。

僕の望みは何一つとして叶えられず、
僕は何ものにもなれなかった。

だが、これは僕一人だけでなく、
殆どすべての大人がそうなのだ。

誰も特別ではなく、誰も光り輝くことなどできない
「普通の人」なのだ。

「持ち続ければ、夢は必ず叶う」と言うのは、
ノーベル賞を受賞した学者や大リーグで活躍している野球選手や
成功をおさめたハリウッドスターの台詞である。
そうならなかった凡ての人の人生においては、
夢も希望も願いも、それらは必ず打ち砕かれる。

信頼や期待は裏切られ、誇りは踏みにじられる。

 こんな見方は余りに悲観的で否定的だと思われるかも知れないが、
しかしこれが僕たちの紛れもない現実だ。
惨めでちっぽけで愚かで軽薄な僕たちの人生なのだ。

この現実以外に
「本当の自分」などあり得ようがないのだ。

 秋葉原無差別殺人の犯人の言葉を引くと、
特異な例だと思われるかもしれないが、
そんな「普通でしかない」現実の自分を受け容れることができなくて、
多くの若者たちが

「本当の自分が何処にもいない」

と叫んで、さ迷い歩いている。

リストカット、引きこもり、鬱病、クレーマー、児童虐待、DVなど、
連日の新聞やテレビの伝える事件や事象が示しているのは、
自己実現を果たすことができなくて
被害者意識に陥っている人々の
呻き怒り衰弱し切った姿ではないかと僕には思われるのだ。

 子供ばかりでなく、人が夢や希望や願いを持つことが
大切なのは言うまでもないだろう。

しかし僕たちは同時に、
それらは必ず破られるもので、
破られた現実をしっかりと認識することの大切さを
理解しなければならないと思うのだ。

人生の皮肉としてではなく。

 褒められ煽てられて、
自分は特別な存在なのだという幻想に生きる子供は
必ず傲慢なエゴイストになるか、
或いは心を病むようになることは必然である。


僕たちはもうそろそろ気付いても良さそうだと思うのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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