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自尊

  過日私的な集まりで「日本人は劣化したか」という話を聞いた。
「劣化」とは、何とも衝撃的なフレーズだが、
話を聞いているうちに彼が言うのは
香山リカの『なぜ日本人は劣化したか』という著作の読後感だということが知れた。

「劣化」という言葉は機械や器具について、
それらが本来持っている性能を十全に果たさなくなったことを言うのだろうから、
人間の精神を表現するのに「劣化」という言葉を使うことには違和感も覚え、
また同時にそのようなタイトルを付けることに
商業的な意図も感じざるを得ないが、
しかし、「近年人々の心の傾向が大きく変化して来ている」
という主張自体には成程と頷かざるを得なかった。


  二十歳の頃から僕は現代の時代精神とは何なのかと考えてきて、
日々見聞きする諸々の事象の奥に潜んでいる
本質的なものを汲み取ろうと自分なりに探ってきたのだが、
近年特に人々の心の傾向に大きな変化が起きているのではないかと思うようになった。

二十年ほど前までには言葉さえなかった
新たでしかも理解しがたい事件や事象が連日新聞やテレビで報道されている。

無差別殺人、愉快犯、引きこもり、不登校、リストカット、ネグレクト、
モンスターペアレント、オーバードーズ、新型うつ、
DV、幼児虐待、イジメによる自殺など、
ここに記すだけでも気分が悪くなるような事件や事象が絶え間なく起こっている。

これらの言葉は今ではすっかり定着して、
僕たちは何の抵抗感も違和感も持たずにそれらを使うようになってしまっているが、
しかし記憶を辿ってみるなら、
それらの言葉が新しく生み出されたものだと気づくはずである。
二十年前と何も変わってはいないとは、最早誰も言わないだろうし、
それが健全な精神の表れなのだとも思いはしないだろう。


  だが人々の心の傾向の変化は
ニュースに取り上げられているような事件や事象だけでなく、
僕たちの日常の中にも多く見られて、
それが中高年者の「この頃の若い者は」という嘆きとなって表われている。

たとえば、最近の若い者は内容の深い本を読むことができない、
辛抱できない、言われたことしかしない、気遣いがない、情熱がない、
モラルやマナーを守らないというような嘆きと、
そしてそういう欠損とは対照的に自分の権利だけは
異様に強く主張するという二重の嘆きが至るところで吐かれている。

私的な集まりで「劣化」と主張されたのも、
これらの嘆きを言い換えたものであると言えるだろう。

もちろん「近頃の若い者は」という言い回しは
古代から連綿と続いてきているものであろうし、
時代の精神はすべての世代に浸透するので、
実は嘆いている側の中高年者も殆ど変わるところはないのだが、
しかし近年のこのような傾向が大きな変化だということは疑えないように思われる。


  では、一体何が変わったのだろう。
何が僕たちに「日本は一体どうなってしまったのか」と嘆かせ、
絶望感を齎すのだろう。

そう問うて先に記した事件や事象を見るとき、
僕たちが見出すのは、他者を認め敬意を払うという意識の欠落、
換言すれば、自己中心的傾向である。

自分が望むことはすべて叶えられるのが当然で、
他者はその用となるべきだというような「自尊」の意識である。

「脱宗教の時代」と言われる僕たちの時代は
神や仏という自分を超えた存在を否定することで
「自由と平等と独立」を手に入れた。

人間は何ものによっても束縛されたり制限されるものでなく、
自分で自分の人生を切り開くのだと宣言するのである。

それは人間性の勝利だと。

確かにそれは輝かしい自由であり、
近代以降僕たちはその思想を基に豊かで便利で快適な社会の実現と、
個性豊かな独自の存在の意味と目的の確立を目指して来た。

それは「素晴らしい新世界」になるはずだった。


  しかし、気がついてみれば、
僕たちは自分の存在の意味や自分の人生の目的を
誰からも与えられなくなってしまったのだ。

親も先生も上司も先輩も、すべての者は子どもたちに

「好きなように、思いのままに生きるのが一番なんだよ」

としか言わない。

人生の目的や意味どころではない。
義務も責任も辛抱も愛も、課しはしないのだ。

 「欲しいものは何でもあげる。望んだことは何でも叶えてあげる。
 お前の進む道に落ちている小石は全部取り除いてあげる。
 だから、好きなように生きるんだよ。
 お前は優秀で特別な存在なのだから」

と、親たちは言い続ける。

子どもの欲望を満足させることや
子どもの機嫌を損ねないことが愛情だと信じているからだ。

それを個性の伸張と考えるからだ。


「人間如何に生きるべきか」

とは最早誰も教えない。

「人はパンのみによって生きるにあらず」とも示さない。
「畏れを知って、自分自身をわきまえなさい」とは諭さない。

人格も愛の精神も徳も、もうすっかり死語になってしまったようである。

子供は母親という名の召使を従えた王様になる。

自分の望んだことはすべて叶えられるはずと
心の底から信じている裸の王様に他者を思い遣る意識の生じるはずはないだろう。


  ところが王様が社会に出て行くと、道が小石ばかりでなく、
茨や崖の連続だということに気づき始める。

いかに母親がそれらを取り除こうと動き回っても、
取り除くことなどできるはずはないのだ。

社会に出た子どもは誰からも認められず、褒められも輝きもせず、
高いプライドは傷つけられて、ボロボロになるばかりだ。

抱きしめて、「いいよ」と言ってくれる
恋人も親友も同級生も先輩も、誰も居はしない。

会社に就職しても同じことだ。
社会的な身分は確かに与えては貰えるが、
上司も同僚も、誰も自分の存在の意味や目的を与えてはくれない。

王様の高い自尊心はズタズタに切り裂かれてしまう。

そのとき子供は一体何処に行ったらよいのだろう。

僕には、それらの傷つき破れた精神が逃げ場を求めて
冒頭に上げた事件や病気や事象に流れて行っているのではないかと思われるのだ。


  肥大化した「自尊」の意識に満ちてしまった僕たちが
再び神や仏のもとに頭を下げることは殆ど為し得ないことだろう。

だから、せめて、理想に照らして自分自身を内省する以外にないのではないかと、
僕はこの頃考えるようになった。

決して人の心が「劣化」しているのではないのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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