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最期の前の日の夜

 二週間ほど前のことだ。
週に一回ほど訪れる喫茶店の椅子に座ってカウンター席に陣取った常連さん達の話を
聞くともなく聞いていると、
「可哀想に、まだ若かったのに、写真館の息子さんが死んでしまった」
と、その声だけがまるでスピーカーを通したかのように大きく耳に響いて来た。
見ると、声の主は僕と同年代くらいの男性だった。
誰かが死んだというのは、悲しいかな、いつでもどこででも為されている日常茶飯のありふれた話だ。
特別に注意を払うことはない。
しかし、「写真館」という言葉が僕の胸に不安な波を立てて来た。
僕は立ちあがって、耳をそばだてた。
話の主はそんな僕に気づいたようだったが、話を塗切らせることはしなかった。
「まだ五十六歳で、親父さんは元気でいるというのに」「癌が全身に転移して・・・」。
彼はカウンター席の常連さん達に何故可哀想なのかとの理由を説明し続けている。
僕は自分では意識していなかったのだが、気がつくと、彼の目の前に立っていた。
「Nさん、なのですか」
僕は訊かずには居られなかった。


 武生は人口八万人ほどの小さな田舎町である。
僕の知る限り、写真館と呼ばれるのは三館くらいしかないはずだった。
写真館の若い人が死んでしまったと言えば、Nさん以外には考えられなかった。
「Nさん?」
僕は、彼の首を絞めたくなるほどだった。


 しかし彼は僕の滾る激情を感じてはいないようだった。
突然話に割り込んで突っかかる僕に顔を歪ませることもなく、
「Nさんを知ってるんですか?」
と、応じてくれた。僕は、
「ええ」
とだけ答えた。
すると彼はまるで手柄話でもするかのように、
Nさんの死に至るまでの経過や家庭の事情や経歴まで、
僕の知らないことを細々と話し出すのだった。
しかしそんなことは僕にとってどうでも好いというより、聞きたくもない話だった。


 僕は、店を出た。後ろ手にドアを閉めるときにもまだ彼の話す声が聞こえて来た。


 僕は二十年程前から、描いた絵の記録用の写真の撮影をN写真館にお願いして来ていて、
つい一カ月前にも、五十点ほどの絵を託して来たところだったのだ。


 その時のNさんの顔色は土気色と言う外なく、僕は危うく「大丈夫ですか」
と言いそうになってしまい、慌ててその声を呑みこまなければならなかったほどだった。
「半月ほどかかると思うんですが、お急ぎでないですか」
Nさんが訊いてくれた。僕は
「まったく急ぎませんから・・・」
とだけ答えた。
「じゃあ・・・」
僕は車に積んだ絵を運び入れるために外に出た。
すると、Nさんはこれまでと同じように僕の後について来た。
絵を運ぶというのである。絵を詰めた箱は六つあった。
僕はその内の一番小さな箱をNさんに預けようと、前に差し出した。
しかしNさんは両手を差し出してくれたものの、よろめいて、それを持つことはとてもできそうにはなかった。
「僕が運びますよ」
僕が言った。
「済みませんね」
Nさんは小さく呟いた。
絵をスタジオに運び入れ、
「急ぎませんから、お願いしますね」
と、僕が挨拶し終えても、Nさんは病気のことは何も言わなかった。
そして僕も、何も訊かなかった。
「二週間ほどはかかると思いますが・・・」
Nさんはそう、申し訳なさそうに、念を押すだけだった。僕は、
「お願いします」
と再び頭を下げて、店を出た。
相当に具合が悪いのだろうと思いはしたが、まさか亡くなってしまうとは、思いつきもしなかった。


 喫茶店でNさんの死を知ってから一週間ほど後に、僕は写真館を訪ねた。
弔問と、撮影をどうするかを相談するためである。
写真館の玄関戸を開け、中に声を掛けると、お父さんが出て来られた。
僕がお悔やみを申し上げると、お父さんはNさんが亡くなる前の日々のことを話して下さった。
「息子は、前さんに申し訳ないと言って、もう食べることもできないのに、
二階のスタジオに上がって、撮ろうとしてたんです。」
「死ぬ前の晩も、上がって行って、そのまま動けなくなってしまって、
私と嫁さんでは抱えて下ろすこともできなくて、救急車に来てもらって・・・」


 Nさんはお世辞もお愛想も言わない寡黙な人だった。
そして、自分の仕事を誠実に果たす人だった。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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