トップページ > エッセイ > 「父の命日」

「父の命日」

 先日、職場に、

「お父さん、亡くなんなはったんやってね」

と、僕を訪ねてこられた人があった。
もう八十を過ぎているように見えるその人は
父と同年なのか同窓の下級生なのか分からなかったが、
父の死を最近知ったので、お悔やみと遅れたお詫びを兼ねて来られたのだという。

その人は何の病気で、どんな様子だったのかと、父の最期の様子を尋ねた後に、

「知らなくて申し訳なかったんですが、何年くらい前のことなんですか」

と、僕に重ねて訊くのだった。


 だがそう訊かれても、僕は答えられなかった。
四五年前ではないだろうが、それが七年前のことなのか十年前なのか、
それとも十数年前のことなのか分からなかったばかりか、
幸いなことにその人は訊いて来はしなかったが、
父が死んだのが夏なのか冬なのかさえ僕は憶えてはいなかった。
意外な質問に追い詰められた僕は、

「もう相当経ちますね」

と、そんな答で許してほしかったが、
その人は父の死んだ年をどうしても明確にしたいようだった。
切羽詰ったような面持ちで言うのである。

「七年くらい前ですか」

しかし何度訊かれてみても、僕は父が死んだのが何年前なのか、
その時雪が降っていたのか桜が咲いていたのかも思い出すことができなかった。
僕は己を恥じつつ「相当経ちますね」と、同じ答えを答えるしかなかった。
すると、その人は皮肉とも軽蔑とも分からない笑みを浮かべて、

「子どもというのは薄情なものですね」

と言うのだった。
僕は申し訳なくて、済みませんとお詫びするしかなかった。


 その夜家に帰って妻にその話をすると、
妻は「丁度十年前の、七月二日ですよ。本当に薄情な息子さんですね」
と僕をからかって、笑った。


 そう確かに、思い出してみれば、
僕は二十数歳の若さで死んでいった一つ年上の姉がいつ死んだのか、
それが暑い日だったのか凍える日だったのかも憶えてはいないし、
「爺ちゃんのちょっぽの子」と言われていたほど可愛がってもらっていたであろう
祖父や母方の祖父母がいつ死んだのかも、何一つ憶えてはいないのだ。
薄情と言われても、反論の余地はない。そう、間違いない。
残念なことに、僕はその汚名を甘んじて受ける以外にないのだろう。


 しかし薄情者の言い訳ではないが、
姉のことも父のことも祖父のことも母方の祖父母のことも、
その命日を僕は覚えてはいないが、
これらの肉親が僕の精神をどう形づくってくれたかは理解しているつもりだ。

僕は今それがどのようなものかを詳らかに語ることはできないし、
語ったところでとても理解される話ではないだろうが、
これら他界してしまった肉親たちは夫々に異なった性格を持ちながらも不思議なことに、
僕の心の最も深いところに二つの刻印を押してくれたことは確かである。

つまり、「人間の不幸は永遠に続く」ことと
「人にサービスし喜ばせることこそが人間としての義務であり責任なのだ」
という二つのことだ。


確かに僕は薄情な息子であり孫であり弟でしかないのだろうが、
もう他界してしまった彼らが僕の心の有り様を決定づけているのだと、
還暦を前にして改めて思うのである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

Mae Hisanori ALLRIGHTS RESERVED.
Powered by eND(LLC)