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「人生の無意味感と自己実現(一)」

 サルトルの『実存主義とは何か』を読んだのは僕が二十歳の頃、
四十数年も前のことだが、今になっても時折そこに書かれていたことを思い出す。

「フォークでも何でも作られた道具には目的があるので、その存在には意味がある。
しかし、人間存在には目的がなく、従って意味もない。
だから人間は自分で自分の目的を設定し、自己を実現してて
自らの存在の意味を見出さなくてはならない」。


 この主張は、ニーチェの

「神は死んだ。その座を受け継ぐのは人間である」

という宣言に基礎を置いている。神が存在するなら、道具と同じように、
人間は神によってつくられたので人間存在には目的と意味があるが、
最早造り手たる神が居ないのだから、人間存在には目的も意味もないという訳である。


 人生の目的も意味も掴めずに虚無感に襲われて窒息死しそうな日々を送っていた若い僕は
その思想に打たれた。自分の人生の目的を自分で設定して、
それを実現することで自分の存在の意味を確立せねばならぬと決意した。

僕が自分自身に課した目的は、ドストエフスキーのような作家になること。
世界と普遍に至る芸術家になるということだった。僕は大真面目だった。
身の丈を知るというような考えは頭に浮かぶこともなかった。
人間にとって大切なことは、

「目標を果たせるか否かではなく、何を望んだか」

だという思いが僕の胸と頭を熱くした。僕は会う人会う人に、

「僕はドストエフスキーのような作家になりたいと思っている」

と、照れることも恥じることもなく語った。

当然のことながら、誰一人の例外もなく、人々は僕を笑った。
しかし僕には、何故人々が僕の真面目で誠実な決意を笑うのかが理解できなかった。

人は謙虚に願わねばならない。
自分自身の限界を尽くして、更なる高みを目指して
血のにじむ努力を積み重ねなければならない。
そうしなければ、僕は本当の意味での人間には成れないのだと、考えていた。

僕は眠ることさえ罪だという声に脅かされた。
遊ぶこと、楽しむこと、憩うこと、休むことは罪だった。
僕はいつ眠ったのかも分からないほどに本を読み、毎日毎晩原稿用紙に向かった。
自室を出ることができなくなっていた。


 僕のまるで小学生のような自己認識の甘さはここでは置くとして、
僕はただただ真面目に、目標を自分自身に課して、
そこに至るべく限界の努力を尽くしたのだと、思う。
身の程知らずの過剰な要求を自分自身に強いて、それが過剰なのだということにも気付かずに、
自分自身を確立しなければならないと、必死だった。

つまり、ドストエフスキーのような作家になることは僕の人生の義務と責任であって、
それを果たさなければ人間に成れないのだと信じて疑わなかった。


 だが、こんな努力を四十数年尽くして来たが、
そう、僕はドストエフスキーのような作家にもなれず、ゴッホのような画家にもなれなかった。
ただの何ものでもない田舎のおっさんである。
誇大妄想に囚われた、ただの惨めで哀れな敗残者である。


そこで考える。
二十歳の時の自分に課した自己実現という目標を達成できなかった僕の存在と人生は
無意味なのかと。


 もしそうであるなら、一体誰が真に自己実現を果たして自分の存在と
人生の意味を確立しているのだろうかと、考える。
総理大臣か、ノーベル賞や文化勲章を得た人か、世界の大富豪か、ブラッド・ピッドか、
AKB48か、漱石か、五木ひろしか、芥川か。
しかしそれらはすべて社会的な価値の基準である。
地位と名誉とお金という、人々がそれを手に入れることが幸福なのだと信じて疑わない
この世の価値基準である。
しかし果たしてそのことが自分の存在と人生に意味を齎して、人を幸福にするのだろうか。

ニーチェは、

「神の座を受け継ぐのは人間である」

と、宣言したのではなかったか。
死んだ神の代わりに人間が神に成ると、人間の勝利を語ったのではなかったか。
しかし、どのような地位や名誉やお金を手に入れたとしても、
それは神になったということではない。
どのような称賛を得たとしても、人は神になることはできない。


 自己を実現することで自己の存在と人生に意味を賦与することなど、
人間には決してできはしないのだろうと、僕には思われる。
何故なら、僕たちはドストエフスキーになることはできるとしても、
神になることはできないからだ。


 僕たちが生きる現代という時代に於いて、極めて多くの人が虚無感に心を覆われて、
自分の存在と人生の意味を見出せずに悩み苦しみ、迷い、病んでいる。


 僕たちは

「近代的自我の呪詛」

という言葉の意味を謙虚に考えなければならないのだろう。

「人は何によって生きるのか」

という言葉の意味を真摯に考えなければならないのだろう。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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