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「人生の無意味感と自己実現(三)」

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

 自分自身に酔った自惚れ屋、ナルシシストを好きになる人はいない。
自分の欲望を遂げるためにひとを利用する人間を愛する人はいない。
僕たちは誰も自己に酔ったエゴイストを厭う。

そういう心の持ち主にわざわざこちらから近寄って行って心を一つにしたいとは望まない。
僕たちは驕り昂ぶったエゴイストからは逃れたいと思うのだ。
「我」に満ちた人を厭うものだ。


 ある哲学者が学生にアンケートを取ったそうだ。何を醜いと感じるのかと。

その問いに学生たちは一様に、「人間」と回答し、
何が美しいと思うのかとの問いには、「自然」と答えたということである。

人間には「我」があって、自然には「我」がないからというのがその理由らしい。

たとえ自分自身が自惚れたエゴイストであったとしても、
人の心の悲しみに心を動かすことのない人間であったとしても、誠に不思議なことに、
人は、「我の欲望」を厭い、「我」のないことを美しいと思うのである。


 このアンケートの結果は、学生さん達の心がたまたま美しかったことに依るのではないだろう。
この結果は普遍的な真実を適確に表しているのだと僕には思われる。
人はその教養や知識の有無に関係なく、いわば本能的に「我欲」を厭うもののようである。


 何故なのだろうかと、僕は考え続けて来た。
自らを高めるために人を抑圧し、利用し、踏みにじるエゴイストの強い力に
僕たちは社交的な迎合をしてその意向に従って行動することは多々あるが、
しかし、心の内では傲慢極まりない己に満ちた人間を軽蔑し、憎みさえするものだ。

何故なら、僕たちは自らを生かしたいからだ。
自らを損ねたり、否定したり、意味なきものにしたくないからだ。
自分自身の存在を保って、生き延びさせたいからだ。


 自分自身のことしか見えないナルシシストは、他者に敬意を払うことも、
人の心の苦しみに胸を揺すぶられることもないので、他者をいとも簡単に否定する。
打ちのめし、蹴り、踏みにじる。


 人は、その「我意」の脅威を本能的に察知するのだ。
生き延びなければならないからである。


 この理屈は、そう知らされたなら、殆どの人々が納得する事実だろう。
そう、僕たちは、自分自身が生きることを根源的に求めている。
自分自身が生き、そして自分の存在が認められ、求められ、愛されてあることを本能的に求めている。
だから自分の存在を否定するものは、拒まねばならない。
嫌い、憎み、遠ざけねばならない。
「我欲」を醜悪だと感じ、「自然」を美しいと感じる理由は、そこにあるのかもしれない。  

過剰に自分自身を高めて自惚れること、それは謙遜さの欠如であり、
他人の尊厳を傷つける。このことは誰にも分かる自明の真理なのだと思われる。


 だが、人々が欺かれるもう一つの「我意」がある。
それは誠実で謙虚に見える罠なのだ。
椎名麟三はそれを

「大袈裟なものには悪魔が潜む」

と言った。

そう、過剰に自分自身を否定するエゴイズムである。
自分自身に自信がない、自分の存在には意味がない、
自分は存在することすら許されない存在なのだと、
自分自身を否定し裁く自我である。


 それは一見、究極の謙虚さのように見えるし、本人もまた自分自身を否定し、
裁いている一方で、それが誠実で美しい心の在り方だと信じて疑わないのだが、
しかし実は、誠に残念なことに、それは過剰な自己愛、自己憐憫なのだと言える。


自分自身を過剰に否定するのは、「本来の自分」という自己像を高いところに置いているからなのだ。

これは、自惚れ屋が自分を高めているのと同じことである。
自惚れ屋は特別に優れてもいない自分を過大評価するのだし、
こちらは頭の中に描いている「本来の自分」を過大評価するのである。
だから「被害者意識」に捕らわれる。

本来の自分が認められないのはこの世が悪いからだ、近親者がこの私を理解しないからだ、
私の誠実さを分からないからだという自尊心の屈辱が被害感を募らせて、
人への軽蔑と憎しみに向わせる。

そしてそれはまた悲しいことに、自分自身の存在の無意味感を産んで、虚無の泥沼に導くのだ。
それは謙虚さとは程遠い。感謝も愛も知ることのできない氷の地平だ。
そこにあるのは、自分自身を神に高めようとする傲慢さだけである。


 これはとてもとても困難なことだが、僕たちは何ものでもない現実の自分を正しく見つめて、
自分自身を過剰に評価して高めた自己像を現実の自分のレベルにまで引き下げるか、
それともまた、高められた自己像に至るよう、それに見合った努力を積み重ねなければならない。
過剰な自尊心は被害感を生んで、必ず虚無へと僕たちを導くからだ。

愛を知らない己に満ちた時代。何とも、悲しいことである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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