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「人生の無意味感と自己実現(五)」

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 若い頃に漱石や太宰や芥川や朔太郎やドストエフスキーなどの小説や詩や評論などを読み耽っていて、
「近代的自我の呪詛」という言葉に突き当たった。


 それら僕が選んで読む本の殆どは、人の心はどんなに深くまで探っても、
己に満ち、邪悪で、ひねくれ捻じ曲がり、傲慢で、
人は決してその根源的軽薄さから逃れる道はないのだと語り、
そしてまた人生は苦しみに満ちていて、どんな思いを込めて望み願ってみても、
喜びや楽しみや慰めや希望に満たされることは決してないのだと言うのだった。

それらの本は僕に、人生は「絶望」以外の何ものでもないと徹底的に思い知らせるものだった。
人生は淋しく、辛く、悲しく、苦しく、悲惨さに満ちている。
そこから逃れる道は、何処にもないのだと。


 僕自身の存在に何の目的も意味も見いだせず、自分は取るに足りない無価値な存在でしかない。
すべては虚しいのだという絶望感に覆われていた僕は
それらの本の中に自分自身の姿を見出して、すべてのことを嘆いていた。
「人生の無意味感」「虚無」は僕を覆い、窒息させた。
苦しくて淋しくて悲しくて仕方がなかった。
「死ぬこと」、それだけが唯一の光のように思われた。


 僕は自室のドアに鍵を掛け、窓のカーテンを閉め、自分の部屋に閉じ籠った。
親や兄弟や友人からの声を拒んで、死すべき自分を呪っていた。
何ものでもない、何の価値もない空虚な己を呪って、氷の部屋に閉じ籠っていた。
誰一人として僕を分かってはくれないと呪文のように唱えながら。


 他人の差し伸べてくれる同情も愛も、僕は拒んで、断ち切っていた。
虚無感、無意味感は僕の骨までを蝕んで、肯定的なことのすべてを嘘だと思わせた。
そんなものは偽善だと。僕は何者でもない自分自身を許すことができなかった。


 意味のない楽しみに喜んで浮かれている周りの人々に屈辱を覚えて、
被害感に囚われた僕は人々を軽蔑し、憎んだ。
自分自身を深く内省することのない軽薄なお前らには決して分からないのだと、軽蔑し、憎んだ。

「本当の自分は何処にもいない」

「愛など、何処にもありはしない」

「美しいものも尊いものもありはしない」

と、自分自身を呪い、世を憎んだ。
屈辱と自己否定から来る被害感が虚しさを限界にまで膨張させて、心を死なせた。
僕はただ息をしているだけで、死んでいるのと何も変わらなかった。
美しいことも、尊いことも、楽しみも、喜びも、希望も何もなかった。
何も知りたくはなかった。
何も求めたくはなかった。
何も何も僕を喜ばせなかった。
僕を惹きつけるものは何もなかった。
何百冊の本を読んでも、信じることのできる、僕を生かす「希望」を見出すことはできなかった。

氷の部屋に僕は閉じ籠って、自分自身を呪っていた。
二十歳の頃から十年、二十年、三十年・・・。



 虚無感に覆われて何も信じることができないと氷の部屋に蹲り続けて来て、
僕は拗ねて僻んで、すっかりねじくれ曲がった人間になってしまったが、
ただ、十九歳の夏に聞いたひとつの講演のことだけはこの四十数年間というもの、
否定することも忘れることもできなかった。
その講演はずっとずっと僕の心の奥にあって、
時に応じて意識の上に浮かびあがり続けて来た。

 講演とは、関西学院大学の水谷昭夫先生の講演でのことである。
「日本文芸の復興」。サブタイトルは、「山本周五郎『樅の木は残った』」。

 僕が大学浪人をしていた夏休みのことだった。
関西の大学に行っていた姉が帰省するなり録音テープを僕に突きつけて、

「これを聴きなさい」

と言った。これを聴かねば、まっとうな人間にはなれないのだと迫って来た。
だが、ニヒルな気分に浸って、斜に構えていた僕は興味がないからと拒んだのだが、
姉は何としてでも僕に聴かせようと決心しているようだった。
高圧的に命令したり、煽てたり、すかしたり、姉は必死だった。
聴きなさい、厭だ、そんなやり取りを何度繰り返したことだろう。

最後に姉は、

「兎に角、一度、聴いてみなさい。聴いた後で拒むのなら、それはあなたの自由だから」

と、宥めるように言った。僕は、分かったと答えた。
姉と僕はテープレコーダーの前に正座をして、聴いた。姉は、ずっと泣いていた。

 誠に残念で情けないことに、僕はその録音テープを何人もの知人友人に貸して、
結局それは二度と僕の元に戻って来なかった。
だから今、その演題も内容も確かめることができない。
頼りは、僕の極めて怪しい記憶だけである。
しかし、先生の呻き声のような声は六十歳を過ぎた今も、僕の胸に蘇る。

 何ものからも自由で独立した批判精神を持つと自称する知的虚無主義。
俺を束縛するものは何ものもないのだと、嘯く虚無主義者。
確かに今日はあなた達の天下だが、明日にはまったく関係のない襤褸布れになって捨て去られてしまう。

 自我の絶頂に立った現代の私たちは耐えることができませんね。
辛抱なんて、ナンセンスだ。身を大袈裟によじって、大声で叫ぶ。

 自分を支えてくれているものに対する意味の喪失。
自分を育て育んでくれたもの、そんなことは関係がないと言います。
だから決して、そこに目を向けることができない。
自我の絶頂に立って、自分自身しか見えない。
 
 これの対極にあるのが、耐えること、原田甲斐が耐えたことですね。
尊きものの為に耐える。
手を切られれば、足で戦い、足をもぎ取られれば、目で戦う。
そうやって戦い続けた男の姿。それは虚しいか。

 周五郎は『日本婦道記』で言います。孝太の差し伸べた手は虚しいか。
これが虚しくなかったら、人間は再生できます。人間には、死と蘇りがあります。

人は愛によって初めて本当に生きることができます。
向こう側から呼びかけてくれる者に目を向けること、愛を信じることができるなら、
人は蘇ることができます。

 有名な聖句ですね。

「愛は寛容であり、情け深い。愛は妬むことを知らない。
愛は驕らない、昂ぶらない、無作法をしない。愛は不善を求めないで、真理を喜ぶ。
愛はすべてを望み、すべてを信じ、すべてを耐える。そして愛は絶えることがない。」

 この講演を聴いてからもう四十六年が過ぎた。
肥大化した自尊心に基づく虚無に覆われて、すっかりねじくれ曲がってしまった僕は、
本当に愚かで不要な遠回りをして来たのだと思われる。

「神は死んだ。その座を受け継ぐのは人間である」

との、二十世紀の思想に最大の影響を与えたと言われるニーチェの言葉、即ち

「自由で平等で、何ものからも独立した近代的自我の呪詛」

に僕は捕らえられ、嘆きの内に生きて来たが、しかしそれはただ、
驕り昂ぶった自尊心に欺かれて、足掻いて来ただけのようにも思える。


 だから、僕の人生は無意味だったのだと嘆くのでも、
未だ先生の語った言葉に値しない自分を呪うのでもなく、
これ以外では決してあり得なかった僕の現実をそのまま受け容れて、
また始めなければならないと思うのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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