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「虚無・最も怖ろしい罠」

 これまでに何度も何度も何度も、僕はこう書いて来た。

「自分の人生に望んだことはすべて潰える。
夢は破れ、理想は壊され、決意は挫かれ、願いも希求も決して成就したりはしない。
そして信頼は裏切られ、期待は無視され、誇りは辱められる。
理解者は何処にも居はしない。人生のすべては虚しい」

と、書いて来た。

 だが僕は徒に否定的な文言を並べて、人生は絶望だと嘯いているのでもなく、
ニヒリスチックであることに被虐の喜びを見出しているのでも、
自己実現を果たせない屈辱を世や他者に転嫁してそれを軽蔑し憎み怨んでいるのでもなく、
そしてまた認められず求められず理解されないことで
自分自身の存在には何の価値も意味もないのだと、
自己憐憫の裡に僻んで拗ねて頑なに自分自身を否定し呪っているのでもない。

 僕はただ愚かさと悲惨さと虚しさに満ちているのが僕たちの人生の現実であり、
真実だと考えているだけである。

いや、むしろ、誤解を恐れずに正直に言うなら、
この絶望を自分自身の人生の真実だと思えないような人は、
まっとうな人ではないのだと思っている。
この絶望に真底苦しめられて自らの手で死のうと決意したこともない人間は、
精神の不感症を病んでいる愚かな人だとさえ思っている。

 僕が言いたいのは、この絶望するしかない現実の中で、
この虚しさに呑みこまれてしまうか否か、欺かれてしまうか否か、ということである。

「虚無」、

これこそが己に満ちた現代を生きる僕たちにとって最も重要な問題なのだと僕は考えている。

僕たちの心を腐らせ骨をも蝕むこの毒にどう立ち向かい、
どう乗り越えて行くかを真摯に模索することこそが僕たちの人生の義務と責任なのだと考えている。

「虚無」は、いつでも何処ででも、ありとあらゆる機会に潜んでいて、
僕たちを巧妙に襲い、僕たちの心を幻惑する。
そして己に満ちた僕たちは、己に満ちているが故に、容易に欺かれてしまう。
「虚無」は、被害者意識に囚われて苦しんでいる自分こそが
「正しいのだよ」、「可哀想なのだよ」と、まことしやかに欺くのである。

その嘘に陥って、人は損ねられ、傷つけられた自分は誠実な被害者で可哀想なのだと、
更に深く虚無の裡に閉じ籠り、他者も自分自身をも軽蔑し呪って、
氷の部屋に蹲り続けるようになる。

「虚無」は、すべては虚しいという正しさで心を覆って、
被害者たる自分自身以外には何も見えないようにしてしまう。
自分自身を大切にしたい、愛したい、
更にそれを伸張させたいという生命の根源的意志が自分のうちにあることを
闇の中に消し去って見えなくしてしまう。
「被害感」を利用すれば、それは簡単なことだ。
虚無は僕たちが思っているよりも遥かに冷徹で巧妙だ。

 望みが叶わなかったとき、夢が破れた時、企てが挫かれた時、信頼が裏切られた時、
誇りが踏みにじられた時、理解されなかったとき、傷つけられた時、つまずいた時、
取り返しのつかない罪を犯したと自分自身を否定する時、
つまり自分自身の存在が損なわれていると思う時に「虚無」は、
その「被害者意識」に乗じて人の心を覆って、
軽蔑と憎悪と呪いの裡に人を閉じ込めてしまうのである。

 その氷の部屋は、「愛」から最も遠いところにあって、
孤独と憎悪と淋しさと悲しさと苦しさだけしか与えてはくれないのだが、
その苦しさこそが自分自身の誠実さの証しなのだと
マゾイズムのトリックまでがそこには備えられているので、
人は容易にそこを出ることができないのだ。

自分は精一杯に尽くしたのだけれど、裏切られ、踏みにじられた被害者で、
可哀想で、苦しんでいるのだという自己憐憫の思いは決して揺るがない。
この心理の動きは極めて真実で、切実で、誠実なものだからである。

私は苦しいのだ、愛してほしいのだ。求められたいのだ。

それは心の底からの本能とも言える根源的な欲求なのであるし、
それが人を生かす推進力なのだから。
被害者意識は常に正しく、悪いのは他者である。
如何に社会の中で自己実現を果たせない自分自身を否定し、
裁き、自分をカスだと罵り続けていても、同じである。
「私は可哀想」なのだし、「正しい」のだ。


 そう、僕たちは正しいのだし、誠実に望んだのだし、尽くしたのだし、純粋だったのだ。
報われてしかるべきだったのだ。愛され、求められ、認められ、輝くべき筈だったのだ。
それに偽りはないのである。

しかし、苦しみは癒えない。憎しみも呪いからも逃れることができない。
「すべては虚しい」と、また、思いは循環し、
「被害者意識」と「虚無」はいよいよ深くなる。

苦しみは果てることなく心を荒廃させる。
虚無に囚われた精神は自分自身に対する憐憫と苦しみ以外には
何も感じることができなくなってしまう。

誠実も、感謝も、喜びも、親切も、同情も、憐れみも、楽しみも、素直さも、
正直も、謙虚さも尊敬も、理想も愛も、自分自身の存在も無意味としか感じない。

人からの呼び掛けも聞こえない。心は氷のように冷えて、頑なだ。
被害者たる自分自身以外には何も見えず、何も聞こえず、何も感じない。
それは愛から最も遠く隔たった地平にある「精神の死」だ。


 だが、それは本当に僕たちが心の奥底から願い求めて来たことなのだろうか。
「絶望」は確かに僕たちのものである。
僕たちの命を懸けた願いも努力も報われはしないし、取り返しのつかない罪も犯してしまう。
すべての望みは潰える。
だから自分は被害者なのだと世を拗ね、僻み、憎み呪う十分な理由はある。

だが、しかし、それは僕たちが心の奥底から願い求めていることなのだろうか。

 僕たちは真面目に誠実に素直に、まったき謙虚さを持って、
自分自身の「虚無感」や「被害者意識」を疑ってみなければならないと思うのだ。
自分は欺かれてはいないのだろうかと、疑ってみなければならないのだ。
自分は可哀想な運命に支配されていると考えているのは本当なのだろうかと。

「愛なんて、ない」

「美しいことも尊いことも善なることも、ありはしない」

「自分の存在には何の価値も意味もない」

「理想も希望も何もありはしない」

と、自分自身を否定し呪い、自分を称賛しない他者を憎悪することは、
僕たちの本当の願い求めていることなのだろうか。

 そうして虚無に囚われた自分を頑なに守りとおして、何も信じることができなくなって、
苦しんで、一体その果てに僕たちは何を得ようと言うのだろう。
人を拒み、愛を否定し、善良さも感謝も否定し続けた果てに、一体何を得ようと言うのだろう。

 僕たちは虚無が闇の中に消し去ってしまった自分自身の心の最も深いところに潜んでいる
「生命の意志」に目をやらねばならないのだ。

それは生きよと僕たちを促している。
更に高く、更に深く、広く、自分自身を果てしなく乗り越えて生きよと、僕たちを促している。
自分自身を正しく愛するように、ひとを愛せと。
自分が今ここに生きてあるということを喜び、感謝せよと。

 自分自身の相対的なこの世の評価、価値基準、それに従うのでなく、
これ以外では決してあり得なかった現実をそのまま受け入れて、
素直に自分の心の最も深いところの意志に目を向け、
そしてまた、自分に向けられた他者の願いや愛に目を向ける時、
僕たちはどんなに自分の望んだことが叶わなくても、自分自身が生まれて来て、
今こうして生きていることに感謝し、喜べるのではないかと、思うのである。

人間には、絶望の果ての死と蘇りがあると思うのである。
僕たちは自分自身に頑なにこだわることでなく、それを放擲する時にこそ、
本来の自分自身であることができるのだし、至高の喜びに包まれるのだと思うのである。

僕たちがこの世に生を受け、存在する意味は、ここにこそあるのだと思うのである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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