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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(三)」

 
 被害者意識と虚無に囚われて、僻んで拗ねて頑なに自分の内に閉じ籠る僕たちの苦しみと、
それを齎す根源的な軽薄さについて書くことはできるが、
そこから逃れて光輝く地平に至る道について書くことは、極めて困難である。
 
 その道は僕たちの目の前に明瞭に開かれていると、僕は確信しているのだが、
しかしそれは容易に言葉になってはくれない。文章にならない。

混沌として滾るマグマのような思いが胸の奥底から噴き上がってきて
僕を促して来ていることを僕は苦しいくらいにはっきりと分かっているというのに、
それは言葉を綴ってくれない。
 
 
 何故なのか。

何故そんなに確信しているというのに、そこに至る道について書くことができないのか。
  
 それは、たとえば僕の能力が足りないということをはじめとして色んな原因があるのだろうが、
決定的なのは恐らく、僕たちが余りに肥大化した自尊心に囚われて己に頑なになっているために
正しく物事を見ることも感じることも考えることもできなくなってしまっている故なのではないかと思われる。

余りにも強く自己を実現すること、承認されることだけが自分の存在を意味づける価値なのだと信じて、
自分の心の内を深く疑うことが出来なくなっている故だと思われる。
親も教師も上司もテレビも雑誌も本も、誰一人として教えてはくれなかったからだ。

「お前は優秀で輝く存在なのだ。お前以上のものなんて何もないのだ。
だから、お前はお前の人生を好きなように、思うように生きていけばよいのだよ」

としか、言われなかったのだ。この言葉の意味することは実は、

「あなたは神になれる。
神なしでもあなたは自分の力で自由に生きて、この世を手に入れることができるのだ」

というイエスに囁かれた悪魔の究極の誘惑なのである。
丁度、ゲーテの『ファウスト』のように。ドストエフスキーのスタヴロギンのように。

僕たちはその誘惑に唆されて、自己実現こそが自分の存在を意味づける唯一の道であると教えこまれて
頑なにそれを信じているのではないだろうか。
それ故に、自分自身以外には何も見えなくなってしまって、凍りついた虚無の部屋に閉じ籠って
自らの身にナイフを突き立てて、世と自分自身を呪っているのではないだろうか。
 
 しかし、何度でも言おう。
  
 僕たちはどんなに望んだのだとしても、神にはなれないのだ。
限界を持った、愚かで醜く軽薄な存在なのだ。

僕たちが虚無の苦しみから逃れて、光溢れる地平に至るためには、
この決して変えることのできない屈辱に充ちた自分自身の惨めな現実を受け容れて、
まったき素直さと謙虚さを持って、真面目に考えなければならないのだろう。
 
 どのように悲惨な過去があろうと、どのように不条理な状況に置かれているのであろうと、
惨めで淋しく辛く苦しく、自分を呪って、他者を恨んで、自分には何の価値も意味もない、自分は死なねばならないのだとしか思えなくても、それでも、まったき素直さと謙虚さをもって、

「本当だろうか」

と、自分自身を疑わねばならないのだ。
 
 人間は醜く、卑劣で傲慢で、軽薄で愚かだ。
心を覆った薄膜を何枚剥ぎ取り掘り下げてみても、それでも更に醜く悪い自分がそこに潜んでいる。
それは芥川が描いてくれたとおりである。
太宰や漱石や、ゴンチャロフやドストエフスキーが描いて見せてくれた通りである。

僕たち人間は生きるに値するような存在ではない。許されるべき存在ではない。
自己実現の企ては必ず潰える。報いは、決してやっては来ない。
 
 
 しかし、フランクルではないが、僕たちが自分自身や人間の存在を悪い、醜い、
愚劣だと否定することは、実は、僕たちが「人間はそうあってはならない」という
基準をもっているということを意味するのではないだろうか。

「人間は斯くあらねばならない」
「エゴイストになってはならない」
「虚無主義に陥ってはならない」
という基準を持っているが故に、醜い、悪い、愚かだ、軽薄だと、
自分自身や他者を裁くのではないだろうか。

夢も希望も理想も美しさも善も、そして愛もないと絶望するということは、
それらがあるべきだと求めているのに、それが叶わないことに依っているのではないだろうか。
 
 誰も愛してくれない、誰も認めてくれないと、僻んで拗ねて自分自身を呪い傷つけて
自己憐憫の内に自身を閉じ込めて何も信じないと頑なになっているのは、
また或いは、自分自身が裏切られた、踏みにじられた、侮辱された、
お前らには私の苦しみが分からないのだとこの世を嘆くのは、
実は、認められ、求められ、愛されたいと願い求めていることを証明してはいないだろうか。

自分を否定して傷つけて苦しむのは、そこを逃れて
自分自身を正しく愛しなさいという警告なのではないだろうか。
丁度身体が傷つけられた時に痛みが生じるように、「苦しみ」は、
早く傷を治して痛みを取り除きなさいという警告・命令なのではないだろうか。
 
 
 そう、僕たちは唯一つの例外もなく、自分自身を愛したいと、
自分のすべてをこめて願い求めているのだ。
自分自身の存在が意味あることを求めているのだ。
 
 洗面器に水を張って、そこに顔をつけて自殺することが決してできないように、
僕たちは自分が生きること、自分自身を大切にすることを根源的に願い求めているのだ。

(しかしこれは、「所詮人間は自分だけが可愛いのだ」とか、
「人間だもの」などという軽薄極まりない矮小化された常識と同じレベルに立ったものでないことには、
十分な注意を払わなくてはならない。
それもまた、僕たちを欺く悪魔の常套手段だからである。
自分自身を正しく愛することこそが、虚無感と過剰なエゴイズムを乗り越えるための
唯一の武器だからである)。
 
 僕たちは全き素直さを持って、謙虚に己に問わねばならない。真面目に問わねばならない。
中途半端な自省は、内省することを知らない自惚れ屋より質が悪いからだ。
より傲慢で、己に充ちているからだ。
 
 さて、書かねばならない。光溢れる地平に至る道について書かねばならない。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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