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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(六)」


「人間の根源的軽薄」と、森有正は言った。
「絶望と言い得るのは、ドストエフスキーほどに願い求めた者だけだ」と。
 
 それは否むことのできない確かな真実だ。
僕たちは己に充ちた軽薄さに囚われていて、しかもドストエフスキーのように
深く願い求めることもできはしない。

そんな極限の感受性も考え深さも素直さも真摯さも持ち合わせてはいない。
ゴッホが求めた愛の深さも兼好の鋭さも賦与されてはいない。
 
 己の限界を尽くして自分のうちを見つめてみても人間の本質を見極めることもできなければ、
愛に生きることもできず、所詮は虚しいだけでしかない世俗の価値と承認を求めて、
その結果、分かっては貰えないと、つまずき破られ踏みにじられ、報われなかった自分自身を
呪って憐れみ頑なになることで、自分の存在を辛うじて守ろうとしているだけの、
誠に愚かに過ぎる存在である。
 
 自分の存在の意味を求めて、自己実現を図り、それが叶えられないと僻んで拗ねて己を否定し、
そして否定していることを誇ることで自尊心を保とうとしているのが、僕たちの哀れな現実である。
 
 そしてこのような自己否定とは別の道を辿れば、浅薄極まりない自分を内省することもできないほどに
知性を欠いて、自分の正義を振り回して他者を罵って恥じることのない自惚れ屋になるばかりである。
 
 誰もが、己に囚われ、己に充ちている。
その故に被害者意識が齎す虚無に病み、しかも病んでいることすらも誇っている。
自分自身の不幸以外には何も見えない。どこまで剝ぎ取り掘り進んでみても、僕たちは己に充ちている。
太宰や芥川や漱石が描いた孤独と絶望である。
 
この現実が、
 
「神は死んだ。その座を受け継ぐべきは人間である」
 
との人間の勝利宣告がなされて以来僕たちがそれを固く信じて疑わなかった故に
齎された結末である。

即ち、美しいことも尊きものも善も愛も、何もありはしない。
この世にあるのはただ一つ、所詮人間は自分自身だけが可愛いのだ、それの何処が悪いのだ。
何だって私はひとを愛さなくてはならないのだ。
そんな義務は何処から課せられるのだと、自分の正しさを誇る「ニヒリズム」である。
 
 これが、

「人間は自由で独立した存在だ。
 自己実現を果たすことこそが自分の存在の意味であり、幸福になることだ」
 
と求め続けたことの結末である。

過剰な自己愛、肥大化した自尊心、それ故に僕たちを水苔のように覆う被害者意識の
マゾイスチックなニヒリズム。
 
 
 しかし人は本当に、そのように軽薄で矮小な存在でしかないのだろうか?
 蛆虫にも値しない存在なのだろうか?
 生きることも許されない死すべき存在なのだろうか?
 
 美しく尊きものを願い求める心は、本当に僕たちのうちにないのだろうか?
 今生きてあることを感謝し歓喜に充たされること、それはおめでたい妄想に過ぎないのだろうか?
 
 素直に謙虚に、自分自身の命を喜び、自分を支え愛してくれている者に眼を向けて、
 感謝の思いに充たされることを僕たちは拒み続けるのだろうか?
 
 
 確かに僕たちは己に充ち、過剰な自己愛に欺かれて、自分自身のことしか見えない故に
虚無に襲われ、他者も自分自身をも憎み裁き否定し呪い、自分自身を憐んで、
マゾイスチックな被虐の喜びを覚えている。
報われない自分自身を憐れむことに陶酔し、恍惚を覚え、苦しみ病んでいることさえも誇っている。
 
 しかしそれは、僕たちが本当に心の底から願い求めていることなのだろうか?
僕たちは己を疑ってみなければならない。虚無のうちに蹲って自分自身を憐れみ、
すべてを呪うことは、本当に僕たちが願い求めていることなのだろうかと?
 
 誰も誰も信じようとはしないが、実は、畏れを知り、驕りを捨てて、自分自身の心の奥底を
素直に謙虚に見詰めるなら、そこに潜む本当の自分自身の希求に気づく筈なのである。

僕たちは単に生きたいだけでなく、過去の屈辱の惨めさに充ちた自分自身を乗り越えて、
より高くより広くより深く生きたいと願い求めているのだ。

自分自身を大切にし、愛したいのだ。
そして、自分自身を愛するように、人を愛したいのだ。
僕たちは愛が欲しいのだし、それだけが人を本当に生かし、自分の存在に意味を齎してくれるのだ。 
 
 
 頑なに自分に拘っている自分の愚かさに気づくなら、
また、他者から差し伸べられている思いに気づくなら、僕たちは自分が生まれて来たこと、
今生きてあることを心の底から感謝して、至上の喜びに満たされる筈なのだ。

感謝と愛と、そして、自分自身の存在の意味に満たされる筈なのだ。 
「精神の死」、そこから蘇り、新たに生きることができる筈なのだ。
 
 しかし、こう言う僕に、皆さんは異議を唱えるだろう。文句を言うだろう。
 
「何が愛だ? お前はおめでたいんだよ。人は結局自分だけが可愛いんだよ。お前だってそうだろう。」と。
 
「そもそも、自分自身を乗り越えるなどという、そんな話は聞いたこともない。私たちは、
『お前は優秀なのだ。お前は好きなようにお前の人生を生きて、お前の才能を生かして
自分を実現するのだよ、それが幸福なのだよ』としか言われなかったではないか」と。
 
しかも、
 
「お前の言うことが正しいのだとしても、私たちは一体、何時そんなことに気づくというのだ」と。
 
「私は死ぬほど傷つけられ、踏みにじられて来たのだ。否定され侮辱されて、
誰にも認められはしなかったのだ。誰も誰も私を求めてはくれず愛してもくれなかった。
報いなど、誰一人与えてはくれなかった」と。
 
 そう、それは正当な異議の申し立てである。
そうだったからこそ、僕たちは自分自身以外には何ものをも信じることができなくなってしまったのだ。
愛なんてある筈がないと嘯くニヒリストの自分を誇って来たのだ。
 
 
 だが、しかし実は、僕たちが淋しくて、悲しくて、苦しくて、誰にも認められない、
自分の存在には何の意味もないと絶望に襲われる時、
その時こそが自分自身の存在の本当の意味に目覚めるチャンスなのである。

その時こそが光溢れる生命の促しに至るための分水嶺に立っているのである。
「精神の死」を乗り越えて、本当の自分になるための最上の機会なのである。
素直に謙虚に正しく自分自身を見つめるなら、それは明らかに示される筈なのである。
 
 
「苦悩だけが、人格を形づくる」
 
「人間には死と、蘇りがあります」
 
「尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできないのだ」
 
これら先人たちの示してくれている真実が導いてくれる筈なのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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