「椅子」
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確か、マラルメだった。彼がいつも通うカフェに置かれている多くの椅子の中で、
自分の椅子はこれだと彼は決めていて、そのカフェに行った時にその「自分の椅子」に他人が座っていたりすると、
マラルメは自分の居場所がなくて落ち着かなるどころか、自分の椅子に座っているひとを怒鳴りつけるのだとか、
そんな話を何かの本で読んだことがある。学生時代のことである。
僕は、マラルメがランボーと並び称される詩の天才か時代の寵児か何だかを知らなかったが、
とんでもない愚かな人なのだなと思ったことを憶えている。
過剰に自尊心を高めて、自分自身のことしか見えなくなってしまった人なのだなと。
病気と診断されるほどに過去を記憶していない僕が何故、
そんなどうでもいいような話を憶えているのか、僕は自分自身の記憶力の働きを理解できないのだが、
しかし、この話は思い出そうともしていないのに、
これまでにも何度も何度も記憶の底からふいと浮かび上がって来るのである。
それは恐らく、この話がマラルメという詩人の人物像を語っている故ではなく、
「椅子」を取り上げた話だったからなのだろう。
僕はその頃から自分の座るべき椅子がどうしても欲しいと、考え始めたていたからなのだろう。
十八歳になって漸く遅すぎる自我に目覚めた僕は、
「人は如何に生きるべきか」
「人間の本質を貫いて人として真に生きるとは、どのようなことなのか」
との問いを担いで、自分の生きるべき道と自分自身の存在の意味を求めて、本を読み漁り、
学友たちとの議論に耽っていた。
僕が存在することの意味は何なのか、それだけを求めて狭くて机さえない下宿に閉じ籠って、
いつ眠ったのかも分からないほどに本を読み漁った。
人に尋ねた。
しかし、如何に本を読もうと、偉いひとに尋ねようと、
若い僕はそれらの何処にも答を見出すことはできなかった。
僕は確かに学生という身分証明書を与えられてはいたが、それは余りに不確かだった。
僕の存在の確固たる意味を証明してくれるものとは思えなかった。
「何者でもない」
その意識が僕を苦しめた。
僕は自分が田んぼにふらふらと漂うだけで
地に根を張ることのない浮草のようでしかないことが苦しくてならなかった。
何処にも行くべきところがなくて冬の雨に打たれながら彷徨う野良犬のように、
淋しく悲しく惨めで遣り切れなかった。
何者でもない自分。
僕が今存在し、生きている根拠も意味も見出すことができなくて、
虚しさが毎日毎夜心に吹き荒れてやまなかった。
僕は渦巻く風に翻弄される紙切れのようだった。
その僕は、「椅子」というアイデアを思いついた。
サルトルの『実存主義とは何か』という書物がその考えを支え導いてくれた。
つまり、
「神さまは死んで、最早居ないのだから、人間は何者にも拘束されない自由で独立した平等な存在であり、
それ故に何者も人間に対して何の目的も義務をも負わせることはできない。
人間は全き自由のうちに放り出された存在である。
だから人は自分の明日に目的を設定して、それを果たすことで
自分自身の存在の意味を確立し、証明するのだ。アイデンティティーを獲得するのだ」。
それは実に説得力のある思想だった。
ロープトリック、アンガージュマン。
僕の存在には何の価値も意味もないのだと虚無感に覆われ苦しめられていた僕は
その思想に魅せられ縋りついた。
これこそが人間存在の真実なのだと、人間の自由と独立の勝利宣言に昂奮し、
頭を熱くし、胸を高鳴らせた。
「自己実現」
これこそが自分の存在に根拠を齎し、意味を与えてくれるのだ。
淋しく悲しく辛く惨めで苦しい虚無感から逃れて、光溢れる意味の地平に立つことができるのだ。
僕の存在の意味、僕の人生の本当の意味、
それは自分の企てを実現することで獲得することができるのだと、僕は考えた。
そして、山本周五郎の説くところの助けも借りて、
「自己実現をこの世で果たせるかどうかは、問題ではない。人はどうあることを望んだか、
どうあることを求めて限界を尽くしたかということだけが肝心なのだ」
と考えた。自分の企てを実現することができなかったときの為に保険を掛けたのかも知れない。
愚かで甘っちょろい僕が企てた自己実現とは、
ドストエフスキーのような作家になりたい、なるべきだという目的だった。
そんな僕を人は笑ったが、僕はこれ以上なく真剣で大真面目だった。
僕は毎日毎晩本を読み漁り、ノートを記して、原稿用紙に向かい続けた。
ドストエフスキーのような作家になること、
それは今から思えば、あまりに馬鹿げた阿呆と言うにも値しない阿呆でしかないのだが、
しかし僕は信じ切っていた。
「自己実現を果たすこと」だけが僕の存在に意味を与えてくれる唯一の道であるのだし、
たとえそれが実現しなかったのだとしても、
「僕たちはこの世で何を実現したかでなく、何を求めたのか、それだけが肝心なのだ」
と保険を効かせて、原稿用紙に字を埋め続けた。
だが、そんな努力は虚しかった。
僕はドストエフスキーのような小説どころか、
発売されたその日のうちにゴミ箱に捨てられるような小説すら書くことができなかった。
十数年、毎日毎夜書き続けても、僕は小説家という「椅子」に座ることはできなかった。
必死の思いで限界を尽くして書いた小説を持って訪れた高校時代の恩師は、
「あいうえおだけでも、四百枚書いたことだけは、立派とも言えるがな」
と、僕の労苦を慰めて下さったが、僕の書いた小説はどれもこれも認めては貰えなかった。
それは隣のおっさんの日記や隣の娘さんのピアノ演奏みたいなものだった。
僕は、自分の存在の根拠、自分の存在の意味を確立できなかった。
「小説家」という椅子を得ることができなかった。
僕たちは自分の存在の意味を求めて自己実現を企てる。
この世に承認されている「椅子」に座ることを願い求める。
いい大学に入ること、いい会社に入ること、そこで部長や社長になること、お金持ちになること、
有名人になること、恋人を得ること、結婚すること、人気者になること、自分の店を持つこと、
芸術家になること、腕のいい職人になること・・・そんな椅子に座ることを求め願う。
人に認められ求められ愛されることを願い求める。
しかし、よほど内省を知らない愚かな自惚れ屋は別として、
その自己実現の企てが叶えられることは決してありはしない。
これで実現したと思って満足することがあったとしても、必ず上には上がいるのであるし、
承認を与えてくれる相手は常に変化するのだし、こちらが求めるようには認めてはくれないのだ。
僕たちの夢は必ず破られ、希望は潰され、企ては挫かれ信頼は裏切られる。
マラルメではないが、自分の座るべき椅子には、いつも誰かが座っているのだ。
確かに、「自尊心は他者からの承認を得ることで、成り立つ」。
R・ジラールの言うとおり、僕たちはこの世で承認されることがなくては、
自分の自尊心を保って、自分の存在の意味を感得することはできない。
ラスコーリニコフがどんなに
「俺は神だ、天才だ。一メートル四方の断崖の上に立っても、俺は一人生き抜いてやる」
と叫んだとしても、世が彼を神だ天才だと認めない限り、彼は自分の自尊心を保つことができないように、
僕たちは世に承認された椅子、身の周りの人々に承認された椅子に座らない限り、
自分自身の存在の意味を得ることはできない。
しかし、その自己実現の企てがこの世の相対的な価値の基準に基づいている限り、
その椅子を獲得したのだとしても、すべては虚しく意味がないと絶望するより他、
僕たちには何の道もないのだ。
自分が望むようには、ひとは認めてはくれない。
そこで僕たちは自分を認めない他者や世を憎み、認められない自分自身を裁いて
否定して呪う自己憐憫と被虐の歪んだ悦楽に閉じ籠る。
誰からも認められず、求められず愛されない自分。
その暗く凍りついた部屋に自分自身を閉じ込めて、自分は被害者なのだと被虐の恍惚に蹲る以外に道はないのだ。
これが僕たちの決して否定することのできない現実である。
しかしそれは、本当なのだろうか?
自己実現を果たせないこと、報われないこと、裏切られたこと、踏まれ蹴られ忍び難い
屈辱の惨めさを味わわされたこと、カスだと嘲笑されて傷つけられたこと、その過去。
しかし本当に、自己実現を果たすことだけが自分自身の存在に意味を与える唯一つの道なのだろうか。
それを果たすことができないのなら、僕たちの存在は虚しくて、意味がないのだろうか。
世に椅子を獲得できなかったのなら、僕たちの存在に意味はなく、許されず、死ぬべきなのだろうか?
それは、神なき時代の子たる僕たちが自尊心を肥大化させ、
過剰な自己愛に欺かれている故なのではないのだろうか?
己に充ちた僕たちの時代。
まったき素直さと謙遜さを持って自分自身の心の最も奥深くを見つめるなら、
そして自分を愛して呼びかけてくれている者に眼を向けるなら、
僕たちは今自分が生きていることの喜びと感謝に熱い涙をこぼすことができる筈なのだが。
自分の存在の意味は自己実現などにあるのではなく、自らの生命の意志に忠実に従って、
自分自身の過去を果てしなく乗り越えて行こうと意志するところにあるのだと気づく筈なのだが。
どんなに淋しく悲しく惨めに傷つき苦しめられたのだとしても、それでも僕たちは許しを乞うて、
ひとを許して、望み祈らなければならないのである。
報われない自分に囚われて、自分自身を否定し憐れんで、僻んで拗ねる被虐の恍惚に
自分の存在の意味を求めてはならないのである。
欺かれてはならないのである。
「人間には、死と蘇りがある」。