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「ぼたん雪の降る日(二)」

翌朝早くに電話が鳴った。

「一度くらいは帰ってきたら?」

母親だった。

「お誕生日だし」

泣いているようだった。

「ああ」

母親にそれが聞こえたかどうか、一郎は電話を切った。

懐かしくも、有り難くも、嬉しくもなかった。
心は凍るように冷たく暗く淋しかった。惨めで虚しく苦しかった。

「死ねばいいのに」、

そう罵り呪うと、涙が溢れて来て止まらなくなった。
彼はそれを拭おうともしなかった。

「すべては虚しい」。

だがその彼は、自分が本当は何を求めているのか、
何故虚しさに襲われて泣き暮らしていなければならないのか、分からなかった。
彼はそれを自分に問うことがなかった。
 
 正月に、彼は帰省した。

両親は「お帰り」と、彼の九年ぶりの帰宅を喜んだが、
どうしているのかとも、これからどうする積りなのかとも訊かなかった。
彼が子供の頃に美味しいと言っていた肉料理を整えて、沢山降った雪のことや
隣近所の噂話をするばかりで、彼の東京での生活に触れようとはしなかった。
 
そのような一週間を過ごしても、彼は東京に帰るとは言い出さなかった。

「どこかに勤めないといけないんだろうね」

夕食のテーブルについた彼が言った。
働きたいとの意欲があるのでもなかったが、三十歳にもなろうという男がいつまでも
ふらふらしていることはもう許されないだろうという反省もあった。

何の社会的な椅子も持たないこと、それが自分を裁き呪わしめる根源だと思われた。

彼はもう、厭だった。
毎日毎夜惨めさと虚しさに襲われて自分自身を切りつけ呪う苦しみから逃れたかった。

この社会に職を得ることがそこから逃れるただ一つの方法だと考えた訳ではなかったが、
彼を愛し期待して来た親が彼に怯えて何も言えなくなって震えている姿を哀れとも思った。
論文は、働きながらでも書ける。
 
彼がそう漏らした次の日の夕食時に父親が大き目の封筒を差し出した。

「こんなところしかないけど・・・」

父親の友人の知り合いが経営する社員十人ほどの建築会社のパンフレットだった。
封筒は、その友人が届けてくれたようだった。

「いつからでも良いらしいけど」

父親の口調はまるで明日の朝食は何時にしたいかと言うような具合だった。
熱も何も籠められていないように一郎には思われた。
母親もまた食卓の上に置かれた鯖の丸焼をほぐすことにかかっていて、
顔も上げず口も挟まなかった。

「来週に、行って来る」

一郎は言った。

「分かった。頼んでおくよ」
 
これで、決まりだった。この諦めとも言える一郎の決心は、
経済学の世界的な権威になることを当然のことと考え信じて疑うことのなかった彼にとっても、
同じ確信を抱き続けて来た両親にとっても、遣り切れないものではあったが、
しかしそれは三人の心に一種の安堵を齎したことも確かだった。

区切り。

三人は押し黙って、母親がほぐした鯖の丸焼を不味そうに口に運んだ。
 
 
 その社名には建築会社という文字が入っていたが、実際には個人が営む工務店と言うべきものだった。
社屋の外壁には何本ものひびが入っていて、屋根の下は黒く汚れて剥げ落ちていた。

期待など何一つとして抱いていない筈だったが、それでも一郎は愕然とした。
情けなかった。
 
 しかし、建てつけの悪い硝子戸を引いて中に入ると、彼の落胆は更に深くなった。
二十畳ほどの狭い事務所には机が三つと貧弱極まりない応接セットが置かれているだけで、
そこにもここにも空いたところには鉄パイプや型枠やスコップや、様々な物が放り出されていた。

「こんにちは」

と一郎は挨拶したが、パソコンに目を落としている三人の女性は顔を上げようともしなかった。

「立山と申します」

一郎が大きな声を出すと、漸く一人の女性が「あら・・・」と呟いて、椅子から立ち上がった。

「社長はいないんだけど」

年の頃五十ばかりの女性が言った。
一昨日に電話をして、日時を約束してあったのだが、一郎はそれを言う気にもなれなかった。

「夕方にまたお伺いしますので、よろしくお伝えください」

と、明るく言い残して会社を出た。

夢も希望も憧れも願いも理想もない日々。虚しく遣り切れない日々。
暗澹たる思いがいよいよ重く一郎を覆った。
 
 夕方に再び会社を訪れると、社長は帰っていた。
一郎は深く頭を下げて挨拶をしたが、社長は昼の不在を謝ることもしないでいきなり、

「臨時雇用だけど、いいだろう」

と決めつけて来た。一郎はそのことも期待してはいなかったが、繊細さのかけらもない男だった。
 
 社長が一郎に命じたのは庶務係だった。
庶務という仕事が何をするものなのか、彼には見当もつかなかったが、

「ぜんぶ、こいつに聞けばいい。稲村だ」

と、社長は昼の五十歳ばかりの女性を指した。
稲村が思い付き、命令する事柄のすべてが彼に課せられた庶務の仕事という訳だ。
朝のお茶汲み、事務所の掃除、社長の運転手、建築現場での足場組みというように、
一郎は稲村の命令する様々な仕事を負わされ、会計経理もしなければならなかった。

「あんたは、経済の博士さまなんだってね。偉いんだね」

と、稲村が笑った。
 
 彼は笑顔を保って、真面目に誠実に与えられた仕事を果たした。
身分は臨時雇用ということだったが、多大な残業も休日出勤も課された。
給料は極めて少なかったが、仕事の量は日々増え続けた。
稲村の二倍は仕事をこなしていると一郎は確信していた。
 
 毎日毎日繰り返される詰らない仕事。
こんなことに人生を費やす意味があるのかとの思いが彼を捉えて離さなかったが、
辞めることはできなかった。

意味ある仕事、意味ある人生、それが欲しくてかなわなかった。
本当の自分。他者の言いなりにならない人生。強い自我の確立。
 
彼は家に帰るとすぐに机にかじりついて毎夜々々最新の専門書を読み、論文を書いた。

「世界に通じる経済学者になること」。

彼は未だにそれを自分に課し続けていた。
そんな企てが叶う筈のないことは、もう十分に分かっていたが、それに縋りつく以外に
彼の自尊心を保つ術は何もなかった。

両親の期待に応えることのできない自分、何ものでもない自分。
本当の俺は何処にもいない。
直の嘲笑う醜い顔が、もう十数年も過ぎたというのに未だに思い出されて、彼を苦しめた。

一郎は研究室に居た時と同じ屈辱を感じて惨めでならなかったが、
それで仕事を放り出してしまうほどまでにはまだ追い詰められてはいなかった。
 
 一郎が決定的に打ちのめされてしまったのは彼が勤め始めてから三年が過ぎた冬のことだった。
臨時雇用という身分はそのままだったが、仕事の要領を覚えて効率的に仕事をこなせるようになり、
先輩職員に対しても少しづつではあったが言うべきことも言えるようになって、
彼は会社の中に座り心地は悪いとは言うものの一種の椅子を得て、
自分の存在に或る程度の価値と意味を感じることが出来るようになっていた。
 
 そんな或る日、社長から呼ばれて、「稲村の仕事をやれ」と、命じられた。
これまでも稲村の仕事の殆どを彼がして来たので、新たな負担を感じることはなかった。
一郎は「はい」と、答えて、すぐに稲村から帳簿を預かった。
 
すべての社員が帰った後の事務室に残って、一郎はそれをつぶさに見て行った。
それは主に社長と部長と課長の三人の出入金の帳簿で他の社員の名も稲村の名もあった。
彼がこれまでに見たことのないものだった。
稲村はこれだけは一郎に手伝わせることなく一人で処理して来たのだ。
 
 その帳簿は最初の一行目からおかしかった。
社長、部長、課長と書かれた出金が記されているが、その横の項目欄には測量費だとか
パソコン代だとか、社長たちに渡す筈のない出費が記されている。
実に幼稚な記載だった。

しかも、取引先に架空の請求書を書かせて、支払ったという記載も少なくなかった。
他社をも巻き込んで自分の会社から盗みを働いているのである。
すべてを計算した訳ではないが、それは小さな建設会社にとってみれば相当な額だった。
臨時雇用である一郎の給料の数倍にはなるだろう。
彼は稲村に電話をして、会社に来てくれと頼んだ。緊急の用件だと。

「だから、あんたに任せたら駄目だって言ったのよ」

稲村は電話の向こうでヒステリックな声を上げた。

「あんただって分け前を貰っているのよ。明日で好いでしょう」

稲村はそう言うと、電話を切ってしまった。
彼はその帳簿を金庫にしまって鍵を掛けた。
 
 街灯のまばらな薄暗い道を一郎は歩いて帰った。
この冬初めてのぼたん雪が降っている。

車の大きな警笛音が後ろから聞こえた。
振り返ると、黒塗りの大きなベンツがすぐ後ろに迫って来ていた。

彼は脇に飛びのいた。
車は彼の身体をかすめるほど近くを通って行った。

暗い街灯と雪のせいではっきりとは見えなかったが、
運転していたのは直だったように思えた。
 
翌日、彼は会社を休んだ。その翌日も次の日も休んだ。

「病院に行きましょう」

母親に促されるままに彼は神経内科で診察を受け、
その日の内に入院が決まった。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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