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「届かなかった手紙(七)」

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 何故私はより高くに至ることを誰よりも求めて来たというのに
こんなにも惨めな思いのうちに苦しみ続けて来なければならなかったのか?

私の存在には何の価値も意味もないと、
毎日毎日自分自身を否定し続けて来なければならなかったのか?

この「自分の存在の無意味感」、これこそが問題です。   
 
 さて、いよいよ核心に進んで行きましょう。
 
 前に、小学校入学以前の幼少期にある子供たちを観察するなら、
僕たち人間がより高くに至ろうと望んでいることが明らかに見える筈だと書きました。

そして、あなた自身の幼少期を曇りなき目で素直に思い出すなら、
そこに「生命の意志」に衝き動かされていきいきと生きていた自分自身を発見する筈だと書きました。

僻んだり拗ねたり、徒に自分を否定して呪ったり人を憎んだりするのでなく、
まっすぐに高みを目指してすべてを注ぎ込む自分自身を発見する筈だと。

その自分は、報われずに悲しい思いをしたこともあったでしょうが、しかし基本的に
あなたはより高きを望んで、努力を重ねて、意味と喜びと感謝に包まれて来たはずです。
 
 しかし、人間は一人ぽっちで生きているのではありません。

母親の愛に包まれて一心同体の安らぎの内にいつまでも生きている訳には行きません。
僕たちはそこを出て社会の中で生きて行くよう宿命づけられています。

これは決して逃れることのできない根本原理です。

僕たちは社会の中でしか生きることができませんし、またその中で生きることを志向もしているのです。
 
 今ほど、母親と一体化した安らぎと書きましたが、赤ちゃんは成長するにつれて自意識を
目覚めさせ、少しづつそこを離れて、やがてその母親とも他者の関係になっていきます。

二歳くらいになると赤ちゃんは自分の欲求に気づき始めて、
それを母親や父親や祖父母など、身近な者との関係の中で実現しようとしはじめ、
また同時に身近な者に認められ称賛され愛されることを求め出します。

自分の思い通りになることを求めつつ、愛する両親から承認されること、
認められ愛されることを求めます。

親と子の親密な、喜びに充ちた関係にあって、親は子を愛し、
子もまたその期待に答え応じて自分を成長させる。

それは何と美しい愛の形であることか。

親と子が互いを求め認め合い、互いを何より大切に思いやる姿。
親は子供の成長を願い、子はそれに応えて自分自身を乗り越えて親の願いに応じようと
必死に願い努力する姿。
自分が今生きて在ることの感謝と愛に満たされている至上の喜び。
意味に充ちた自分。
 
 しかし、この蜜月の安らぎはそんなに長く続きはしないというのが、僕たちの現実なのでしょう。

あなたは大きくなって、兄弟が生まれ、幼稚園に通うようになり、
小学校に入学しなければならなくなります。

親や祖父母と関わるだけの濃密な関係の中で愛され、
愛する至福の喜びに包まれていた世界に他者が入り込んで来ます。
他者との関係の中で生きて行かねばなりません。
その中で成長して行かねばなりません。
 
 
 赤ちゃんは日々の生活の中で如何に振舞うべきかを身につけて行きます。
話し方から箸の持ち方、挨拶の仕方、歩き方など、行動の様式を身につけて行きます。
何が良くて何が悪いか、何が美しくて何が醜く、何が恥ずかしくて何が誇らしいか、
何が偉くて何が馬鹿なのか、何が尊く何が下賤か・・・
つまり「社会的な価値基準」を身につけて行きます。
 
 赤ちゃんはそれまでのようにただ単に可愛いだけでは駄目になります。
単にひらがなを書けるだけでも、お父さんの絵を描けるだけでも、
自転車に乗ることができるだけでも駄目になります。

他者との関係の中で何が優れているかという価値の評価が出現して来て、
それによって毀誉褒貶が与えられるからです。

 無邪気な子供は敏感にその評価・価値を感じ取って自分を見つめます。
愛する母親に愛される存在、つまり意味ある存在になりたいからです。
子供は他者と自分とを比較して、自分の現実をぼんやりとですが、
しかし明確に認識します。兄弟よりも劣った自分。
或いは優れた自分。美しくない自分。或いは美しい自分・・・。

 幼稚園で、小学校で、優れていない自分。
勉強もスポーツも芸術も、「2」しか貰うことのできない自分。
人気者でない自分。
親の期待と愛に応えることのできない自分。
そしてそれ故に、親に愛されない自分。

或いはその反対の自分というように、僕たちは社会的な価値基準に照らして、
他者と自分とを比較して評価するようになるのです。
 
 
⑦ 自分自身を大切にして生きること、そしてその自分をより高くしていくこと・・・
その生命の意志の促す目的を十全に果たすために備えられている自尊心は
この他者との関係性の中で「社会的な価値基準」に支配されて行きます。

神さまはいないのですから、自尊心は他者より優れていることを目指します。
それこそが認められ愛されることだと思うようになります。
それこそが自分の存在に意味を齎して、幸福になることなのだと固く信じるようになります。

「自己実現」

「自己の確立」

これこそが人生の目的であり、自分の存在の意味なのだと考えるようになります。
 
 
 自分自身を高めたい。

親に認められ愛される存在になりたい、成長したいという純情な願いから始まった自己実現の欲求は、
小学中学高校へと進んで行くにつれて、どういうことを求めるようになるのでしょう? 

学業が優秀なこと、スポーツ、藝術、ゲームに秀でていること、顔立ちやスタイルが可愛いこと、
美しいこと、人気者であること、もてること・・・
それこそが自分の存在の価値であり意味であると思うようになります。
それらを得られない劣等生には存在の意味も幸福も与えられないのだと信じるようになります。
 
 そしてこの考えは歳をとるにつれて固く揺るぎないものになっていきます。
僕たちはより他者と社会を意識するようになり、「地位と名誉とお金と有名性」という
昔から定められた価値の基準こそが大切なのだと信じて疑わなくなります。

一流大学、一流企業、恋人、結婚、芸能人、ジャーナリスト、一流音楽家、一流芸術家、
マイケル・ジャクソン、一流シェフ、部長、係長、市議会議員、社長、医者、弁護士、
お金持ち・・・。社会に認められ称賛される者になること、
それこそが存在の意味だと人々は考えて、自己実現を図ります。

何者かになろうと企てます。
 
 しかし、その企てはことごとく打ち壊されます。
人々は決して自分を理解してはくれず、正当な報いも与えてはくれません。
恋愛でも友人関係でも学校でも会社の人事でも、芸能界でも音楽界でも業界でも地域でもです。

そしてまた都合よく事が運んで何らかの位置に上りつめたとしても、
この限りなく広い世界には常に上には上が居るのですし、
過去にも未来にも上が居るのです。
僕たちは決して飛びきり優秀でもなく、輝きもせず、認められもしないのです。
望んだことは決して叶えられはしないのです。
 
 いや、それより何より、そもそも僕たちの頭の中にある「自己像」は、現実の自分よりも
過剰に高いものとなっているので、どのような地位や名誉やお金を得たのだとしても、
肥大化した自尊心が現実の自分に満足することはないのです。

もちろん内省することのできない自惚れ屋は今の自分を誇って、
快感や楽しさを味わいますが、真の喜びと幸福を得ることはできないでしょう。
自惚れたエゴイストは人に嫌がられて、やがて淋しい自分に苦しまなければならなくなります。
 
 僕が詳しく書かなくても、あなたはもう既に僕たちのこの現実をよくご存じでしょう。
あなたの周りにも「馬鹿ばっかりだ。誰も俺を分からない」と、被害者意識に充ちて
不平不満をこぼしている人たちが掃いて捨てるほど居るからです。

誰もが頭の中に描いた優秀で特別な自己像を本当の自分だと思っていて、
何ら輝かない現実の自分を「本当の俺はこんなものじゃない」と、
理解してくれない人々を憎んで嘆いています。

今のここにしか「本当の私」はいないにも拘らず、
頭に描いた過剰な自己像が実現されないことを嘆くのです。

「俺はまだ本気を出していないんだ」

「本当の私の実力をお前たちは分からないんだ」

「俺の本当の居場所はここではないんだ。こんな馬鹿たちには分からないんだ」

と、報われない自分の不幸を嘆くのです。
 
 
⑧ 僕たちの願い求める夢も希望も理想も憧れも、すべては叶わず、砕かれます。
企ても願いも希求も、すべては潰されます。
信頼は裏切られ、誇りは踏みにじられ辱められます。
すべては、虚しい。
この世には美しいことも尊いことも善なるものも、そして愛もないのだ。
努力が報われることはない。
本当の自分は決して理解されない。
自己実現を果たせない自分には何の価値も意味もないのだ。

あなたがそう考えるのは当然のことです。
すべてはあなたが望んだようにはいかないからです。
 
 
 そうです。他者との関係の中で自己を実現することに自分の人生の目的と意味を求める限り、
僕たちの存在と人生には「虚無」があるばかりなのです。
すべては虚しく、「風を追う」ようなものです。
打ち寄せる波際に砂の楼閣を作るようなものでしかないのでしょう。
 
 あなたが苦しみを抱えて力を尽くして来たことの結末がこのようでしかないのですから、
あなたがこんな人生は生きるに値しないと考えることは当然だと言えるでしょう。

他者を憎み、自分を裁き呪って、自分には何の価値も意味もないのだと、
毎日毎夜虚無の嵐に襲われて、「死ぬしかない」と、
自分の体にナイフを突き立てるしかなくなるのは仕方のないことだと思います。

あなたは誠実に真面目に命を懸けて求めて願って来たのです。

必死に努力して、認められ、愛される自分になりたいと
ギリギリの力を振り絞って来たのですから。

自分を確立して、誰も信じないで一人ぽっちで生き抜くんだと、
血の涙を流し続けて来たのですから。
 
 
 しかし僕たちは、僕たちの存在の根源にある「生命の意志」に促されるままに、
誠実に忠実に求め続けて来たのではなかったでしょうか?

より高くより広くより深く豊かに生きよという意志に衝き動かされて、
自分自身を高めようとして来たのではないでしょうか?

だのに何故、虚無に至るしかないのでしょう。

しかも、社会の中に生きている僕たち人間の自尊心は
他者によって支えられない限り成り立たないというのに。

人々の「承認」なしには自分の命を保つことができないよう定められているというのに。
 
 さて、もう少し辛抱して考えて行きましょう。
諦めずに、素直に謙虚に自分自身の心の深くを考えてみましょう。
                           (つづく)

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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