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「届かなかった手紙(八)」

「認められたい、求められたい、愛されたいと心の底から切実に望んで、
自分を成長させようと精一杯の努力をして来たというのに、
私は輝きもせず優秀でもなく、馬鹿のような男にさえ愛されなかった。

親も級友も誰一人として私を認めず愛してもくれなかった。
私にはもう何の望みも理想も夢も希望もありはしない。

すべては虚しい。

私の心は凍りついてしまって、もう何も感じることができなくなってしまった。

楽しさも喜びも感動も、感謝も何も感じはしない。
私の存在には何の価値も意味もありはしない。

そんな私は死ぬべきなのだ」。
 
 あなたはそのように思って自分の内に頑なに閉じ籠って自分自身を呪います。
報われない虚しい自分と、そして自分を理解しない他者を憎みます。
 
 そう、それも仕方がないことです。

認められない=自分の存在が無価値で無意味であるということは
何よりも何よりも辛く苦しく、骨の髄までが軋むことでしょう。

認められない輝かない求められない愛されない。
その上軽蔑にも値しないような男たちにさえ愛されないばかりか侮辱までされる。

この身を裂かれるような屈辱、惨めさは心を打ちのめすに十分でしょう。
僕たち人間にとって最も深い苦しみでしょう。

何故なら、これまで何度も書いて来たように、
僕たちは自分自身を生かしたいのですし、その自分を高めたいのですから。

自分の存在が無価値で無意味だと周りの人々から断定されることは
何よりも苦しく悲しく辛いのです。

「存在の無意味」「虚無」、

これはあなたばかりでなく、僕たち人間にとって最も重要な問題だと思います。
 
 自分が生きているこの世で誰にも認められず愛されない。
親にも級友にも同僚にも異性にも認められない、何ものでもない私。
無価値で無意味な私の存在。

「死ぬべきだ」とあなたは考えます。

自分を認めない他者を刺し殺すことはとてもできはしないし、したいとも思わないけれど、
虚しさと苦しみに骨まで痛めつけられている不幸なあなたは、自分自身を憎み呪います。
 
 生きたいと望み、しかもその自分を更に高めたいと願い求める自尊心は傷つき破れて
自分の存在の意味を何処にも見出すことができなくなって、それを自分自身を裁き
否定して頑なに自分の内に閉じ籠って、自らを裁き否定して、「死」に臨ませます。

そうです、「死ぬほど苦しんでいること」に何とか活路を見いだそうとします。

自尊心を保とうとします。
 
 自分自身を過度に裁いて憎み呪って苦しむことは、
(一般に信じられているような)単なる自己否定ではないのです。

あなたにはこのことがよくお分かりでしょう。 
 
 僕たちを生かしている生命の意志は本当に信じられないほど強靭なのです。
僕たちは何があったのだとしても、生きたいのです。
自分自身を意味なきものとしたくないのです。
ですから自分自身を否定し呪う苦しみ、或いはまた手首を切ったり
薬を大量に呑んだりという切実な苦しみによって自分の存在の意味を見出そうとするのです。

マゾイズムという言葉をご存じでしょう。
自分自身を傷つけ痛めることに被虐の喜びを見出すという心理です。
自分自身が苦しければ苦しいほど、自分は崇高なものと繋がっていると自尊心は求めるのです。
苦しみもがく不幸なヒロインになることで僕たちは傷つけられた自尊心を保とうとするのです。
自分は被害者であり、それ故に苦しめられているという意識が
自分自分の存在に意味を与えると無意識のうちに自分を追い込むのです。

誰にも愛されない自分、認められず輝かない自分、その屈辱で損なわれた自分の存在の意味を、
苦しむことで回復しようとするのです。
苦しければ苦しいほど、被害者であればある程、自分の存在の意味を回復できると考えるからです。

私はこんなにも苦しんでいる、自分は被害者なのだ、可哀想なのだ、こんなにも不幸なのだと、
苦しみの内に自分自身を閉じ込めます。
何も信じず、何も願わず、虚無の内に自分を閉じ込めます。

可哀想な私、不幸な宿命に支配された私と自分自身を感じて、
自己憐憫の苦しみで自分自身を慰めようとします。

絶望、虚無、苦しみの内に自分を閉じ込めて、何ものも聞かず、何ものも信じず、
何ものも求めず、自分自身と他者を憎み呪うことで何とか自尊心を保とうとします。

あなたにはその可哀想な自分以外には何も見えはしないでしょうし、
他者から気遣い呼び掛ける声も届きはしないでしょう。

何も信じず、何も願わない。即ち「虚無」があなたの魂を固く覆って
何も見えなくしてしまっているのです。
美しいことも尊いことも何もない、すべては虚しいのだ、私は苦しいのだと
頑なに報われなかった自分を憐れみ、呪い、泣いているのです。
 
 僕はあなたのこのような心のありようを十二分に分かっている積りです。
あなたには信じられないでしょうが、あなたが頑なに自分自身の内に閉じ籠って、
生きる意味のない自分は死ぬべきだという思いに自分を閉じ込めて泣き暮らしていることを、
僕はよく分かっているつもりです。
あなたがそうならざるを得ないことも、僕自身のことのように分かっているつもりです。

何故なら僕もまた長い間そのように生きて来たからです。
あなたと同じ苦しみを僕もまた生きて来たからです。
ですから、言うのです。どうしてもあなたに分かって頂きたいのです。
 
 自分自身を過度に否定して苛むことは、自惚れて自分自身を高めるエゴイストと同じなのです。
あなたにこう言うことは過酷なことだと僕は承知しています。
しかしこのことはどうしても分かって頂かなくてはならないのです。
自分を高め誇ることも自分を過度に否定し苛むことも共に驕り昂ぶったことなのです。
それは過剰な自己愛・肥大化した自尊心の為すところなのです。
 
 ですから、頑なに自分自身に拘っていてはいけないのです。
あなたの心の最も深いところにあるあなたの意志は、素直に謙虚になって、
凍りついた虚無の部屋から出たいと願い求めているのですから。

このことはもう分かっておいででしょう。

自分を認めて下さい。
あなたはあなた自身が大好きなのです。

生きたいのですし、認められ愛されたいのですし、いきいきと生きたいのですし、
愛されたいのですし、心から愛したいのです。
 
 最初に言いましたよね。あなたは精一杯に求め願って来た。
それはとてもとても美しく尊いことなのです。

ご自分の心の最も深いところに潜んでいるあなたの願い求めている思いに素直になって、
ご自分を正しく認めて下さい。
ご自分を正しく愛して下さい。
そして、僕のこの呼びかける声を素直に聴いて下さい。
 
 
 さて、何故求め願って来たのにこのように苦しまねばならないのか?  
 
 
⑨ 人は赤ちゃんから大きくなっていくにつれて社会の中に出て行って、
そこで社会的な価値基準を身につけて、その中で価値と承認を手に入れようとする。
それこそが自分の存在の意味なのだと考える。
承認を手に入れれば意味があり幸福で、そうできないのだとしたら
無意味で不幸なのだと考える。
 
 
 社会的に生きる僕たちの自尊心は確かに社会的承認によって成り立っています。
それなしに僕たちは自分を保って生きて行くことができません。

丁度ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが

「俺は天才だ。俺は一メートル四方の断崖の上ででもたった一人で生き抜いてやる」

と、叫んでも、周りの誰もが彼を天才だと認めないとしたなら、彼は生きて行けないように、
 
 
⑩ 僕たちの自尊心は社会的な承認なしには生きて行けないのです。
ですから、承認は何より重要です。認められたい、求められたい、愛されたいと
求め願うことは生命の意志の根源的欲求なのです。
地位や名誉やお金を求めること、また人より優れていることや
何ものかになることを求めること自体は自然なことと言えるのかもしれません。
 
 
⑪ 問題は、僕たちが社会化され成長して行く時に相対的な社会的価値の基準だけを
価値であると信じてしまうところにあるのではないかと、僕は考えています。
この社会の中で自己を実現することだけが自分の存在および人生を意味あるものにすると
信じて疑わないところに大きな過ちがあるのだと、僕には思われるのです。
生命の意志の

「生きよ。そして更なる高みに至れ」

という促しの次元を僕たちは間違えてしまったのではないかと思われるのです。
 
 
⑫ 僕たちが赤ちゃんから幼児になり、次第に社会的価値基準を身につけて
社会化されていく過程で、僕たちは地位や名誉やお金や有名性という
他者より秀でることを旨とする価値を学びましたが、
しかし、そうではない価値も学んだ筈なのです。

分かりやすく言うなら、「人格」や「愛」についても教えられ学んだはずなのです。
それは人として「美しく尊い心」を培うことです。
 
 
 親切、寛容、同情心、謙虚、温和、辛抱、慈悲・・・一言で言うなら、「愛」です。
愛を身につけること、愛を身につけて立派な人格へと成長していくこと、
相対的でない価値です。人としてあることの価値です。理想であり希望です。
 
 
 あなたが自分自身を否定して「死ぬべきだ」と自分を呪う時、あなたは上に書いたような
人格を身につけていないから自分の存在には何の価値も意味もない、
だから自分は死ぬべきだと思っておいでですか?

自分は駄目だ、悪い、醜いと自分を否定する時、私は愛に欠けているからとお考えですか?
 
素直に正直にご自分の心の奥底を見つめてみて下さい。

あなたの悲しみ、あなたの苦しみ、あなたの虚無感は、あなたの不幸は、
何故にあなたを襲うのでしょう?
何故にあなたは人を憎み、自分自身を憎み否定して、自らを呪うのでしょう。
何故に、あなたは虚しいのですか?
何故に不幸で可哀想なのですか?
あなたの存在の何が駄目で足りないというのですか?

素直に正直にご自分の心の奥底を見つめてみて下さい。
 
 幼い頃から今に至るまで色々なことがあったのでしょう。
無念や後悔や屈辱や・・・自分自身の存在の意味がないと追い詰められるほど
淋しく悲しく惨めで虚しかったのでしょう。
何も信じられない、もう何も求めない願わないと、
頑なに氷の部屋に閉じ籠る以外に自尊心を守ることができなかったのでしょう。
あなたは今、「お前なんかに分かられてたまるか」とお思いでしょう。

しかし素直に正直にご自分の心のうちを見つめてみて下さい。
 
 あなたがあなたを否定する原因は

「私が望み願い求めて来たことが実現しなかった」
「思いが叶わなかった」

ことに根があるのではないでしょうか。
愛に欠けている、人格が貧しいという理由でなく。

周りの人々との関係の中で、社会的な承認・価値づけが叶わなかったこと、
即ちあなた自身の欲求を実現することができなかったことに
あなたがあなた自身を否定する原因があるのではないでしょうか?
                            (つづく)

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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