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「生きる意味(二)
すべては虚しいとの思いに覆われている君に」

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

前に書いたように、「絶望」「存在の無意味感」、
それは自分の望みが絶たれて叶わなかったことによって生じる。

僕たちは自分の望みが達成されてそうと認められることを
自分の存在の意味だと考えているので、望みが叶えられないことは
自分の存在には何の価値もなく無意味だと思うのだ。

だから認められず輝かない駄目な自分を否定して呪うのだし、
自分を認めない世をもまた憎み軽蔑するのだ。
 
 
 では、僕たちの絶望、無意味感の根源、
つまり叶わなかった望みとは一体何なのだろう?

それなしには生きることができないと
必死に願い求めて来たこととは何なのだろう?

「自分の存在には何の価値も意味もない。
すべては虚しい」

と絶望に襲われて泣き暮らしている人は
このように言うだろう。
 
 
『兄弟に比べて優秀でない私は親に愛されなかった。

虐待を受けて来た。

美しくも可愛くも何の才能もなかった私は親ばかりでなく、誰にも愛されなかった。

勉強もスポーツも芸術でも優れていなかった私は認められなかった。

輝かなかった。

一流の大学に入れなかった。

家でも学校でも会社でも、好きになった異性にも、私は認められなかった。

何をしてもしなくても私は認められ求められ輝かなかった。

誰も、私を理解し愛してはくれなかった。

生きている価値のない私』。
 
 
 幼い頃からそのような思いに襲われて来たのだから、
誰にも認められず求められない駄目な自分を否定し傷つけ呪って、
頑なに自分自身の内に閉じ籠るより他に、自分を守る術がなくなってしまうのは
仕方のないことなのだろう。

惨めさ、屈辱、怒り、悲しみ、虚しさ、絶望、生きることの無意味感・・・

「私なんか死んでしまえばいいのだ」

「私の人生なんて、どうだっていいじゃん」、

そんな骨までをも蝕む虚無の圧倒的な思いに毎日毎夜襲われることは
何より淋しく悲しく辛い苦しみだろう。

このように自分には何の価値もないと自分自身を否定し、憎み、呪って、
この世には信じられるものなど何一つとしてないのだと、
凍りついた自分の内に頑なに閉じ籠って泣き暮れる以外に
一体どのような選択があるだろう。

果てのない砂漠に一人放り出されて、何処に向かって行ったらよいのか、
水筒に水はなく、おにぎり一つも持ってはいないのだ。

誰も、私を助けてはくれない。

そんな思いに毎夜毎夜襲われるのだ。

お前には何の価値もないと。
 
だが、誤解を恐れずに言うなら、それは、

「自分の思うようには相手が答え応じてくれなかった」

「自分の願い求めることを実現できなかった」

ということではないのだろうか?

その過酷な苦しみに対してこのように言うことはあまりに軽すぎる理屈で、
侮辱されているように思われるに違いないとは思われるが、
しかし、これが真実なのではないだろうか?
 
 僕はそれが悪いと言っているのでは、決して、ない。

親であれ級友であれ恋人であれ、同僚や上司であれ、
他者に認められることは極めて重要で、
僕たちはその承認なしには生きて行くことができないのだから。
 
 僕が言いたいのは、その他者から認められないという自己評価は相対的な評価、
社会的価値基準に基づく評価に過ぎないということである。

それはたまたま目の前に居る親や兄弟や友人や恋人や級友や同僚や上司などに、
自分が望むようには認められたり輝かなかったということに過ぎないのである。

もちろん、子供にとっての親や級友は絶対的な存在なので、
事が極めて難しいことは確かだが、
それが相対的な評価であることは間違いがないだろう。
 
 何度も言うが、それが悪いと言うのではない。

僕たちは認められたいし、求められたいし、輝きたいし愛されたい。
僕たちの自尊心はそれなしに生きて行くことができない。

「承認」されることは僕たちが生きて行く上でなくてはならぬ最も重要な要件である。
だからこそ、朔太郎は絶望に沈む龍之介を慰めようとして、

「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名声がある」

と、言ったのだ。

君の存在は認められ輝いていて、愛され、意味があるのだと。
 
 しかし、それでも龍之介は自分の存在に意味を見出すことができなかった。
何故なら、龍之介は後世に残る著作や高い名声以上のものを自分に求めていたからだ。

つまり、極端な言い方をするなら、神になることを願い求めていたからだ。

だが、彼が願い求めるように現実は答え応じてはくれなかった。
龍之介は自分の求めることをこの世で実現できなかった。
 
 
 僕たちを衝き動かしている「生命の意志」。

それは自分自身の存在を生かし、更に高みへと至ることを促している。

そして僕たちはそれを実現せんとして、
社会の中で認められ求められ輝き愛されることを願い求める。

そこに自分の存在の意味を求める。

これは僕たち人間特有の根源的な希求だ。

しかし、「自己実現」は決して果たすことができないのだし、
もしそれが実現したのだとしても、
自分の存在の意味を獲得したと思うことはできないだろう。

その実現は相対的な社会的価値基準の承認に過ぎないからだ。
 
 僕たちが誤ってはならないのは、実は、ここなのだ。

つまり、自分の存在の価値と、自分の存在の意味。
それらは同質なものではないのである。

僕たちはフォークやカップのような道具存在ではないのだ。

価値と意味とは、そもそも次元が異なっているのである。
相対的な価値評価と、自分が存在することの意味とを同じものと考えてはならないのだ。
そこに落とし穴がある。
 
 では、相対的な価値の評価ではなくて、
僕たちの存在の本当の意味は何処にあるのか? 

これは極めて難しい問いだが、僕は、このように思っている。
 
 自分自身を素直に謙虚に正しく愛して、
自分自身を支え愛してくれている者に目を向けて、
そして今の自分を果てしなく超えようと意志することだと。

更なる高みを求め願う精神、それこそが美しく尊いのだ。

求め願う自分自身の魂の希求をそのまま認めなくてはならないのだ。

どのように傷つけられた過去があるのだとしても、
どんな境遇に置かれているのだとしても、
求め願う自分を正しく愛して、謙遜にまた願わねばならないのだ。

僕たちは自分自身を正しく愛することなしには、
本当に生きることも死ぬことさえもできないからである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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