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「ニヒリズム(一)」

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Mさんという才媛が居る。

同じ歳の彼女と絵を通して知り合ってからもう五六年経つだろうが、
二年ほど前から彼女は切羽詰まった声でこのように言うようになった。
 
「太宰も芥川も人間の心理を深く尋ね求めて
日本文学史上に大いなる金字塔を打ち建てた。

彼らは本当に凄い。

人間の精神が至ることのできる極北の孤独の淵に立って、
真実を私たちに見せてくれた。
 
 しかし、彼らは自ら命を絶ってしまった。
もうこれ以上ないところまで探り求めてそれを表現したのに、
彼らは最も肝心なところで誤った。

本当は、十二分に分かっていた筈なのだ。

自ら命を絶つなどという過ちを決して犯してはならないということを、
彼らは明快に分かっていた筈だ。

だのに、自ら死んだ」。
 
 彼女は訴えるように言うのである。
 
「前さん、太宰や芥川が死んだのは、『誇り』故なのよ。
本当は、人生の絶望と無意味という極限にまで追い詰められたからこそ
描くべきことがある筈なのに、
彼らはその誇り故に自死を選んでしまったのだと、
この歳になって、思うの。

だから、前さんは死なずに、書いて。
その先を書くことは前さんの使命なのよ。
前さんは決してそこで死なずに、書いて。
いえ、書いてと言うより、書くべきなのよ」

と。
 
Mさんが僕にそう言って下さるのはとても有り難いことではあるが、
しかしそれは過分な期待であり妄想に近い願望である。

僕にそのような才能がある筈はない。
 
芥川や太宰ばかりでなくニーチェやドストエフスキーや
サルトルや漱石や鴎外や朔太郎や麟三や、
それら近代の天才たちがのたうち苦しめられて来た
「ニヒリズム」という問題、
「近代的自我の呪詛」という究極の問題、
それを乗り越える明確な回答を
僕が見出して文章にすることなどできる筈のないことは
火を見るより明らかなことである。
 
だのに、彼女は、

「その先を書くべきだ」

と言うのである。
 
 僕が彼女の期待し求めるような展開のできる筈がないことは明らかだが、
しかしその僕にも彼女の訴える

「太宰も芥川も、そこで自ら死を選んではいけなかったのだ」

という主張は間違いないと思っている。

人生は生きるに値しない、人生は絶望と無意味に充ちているという考えが
「誇り」によって生み出されているということも間違いないだろうとも思っている。
 
 
 太宰や芥川という本で知った作家ではなく、
僕と近い関係にある者が何人も自ら死んでいる。

僕はその死に向き合わされる度に、
「何故なのだ」
と、悲しみに心を絞られ、
「こんなことがあっていい筈がない」
と、怒りに震えて来た。

僕の心は激しく揺れて震えて苦しく、惨めだった。

そして同時に、自ら死んで行った彼らの横着極まりない身勝手さが恨めしかった。
 
彼らは辛かったのだろう、淋しかったのだろう、虚しかったのだろう。

余人には測り知れぬことのできない堪え難い苦しみだったのだろう。

自らの孤独と虚しさと無意味感にこれ以上苦しめられるよりは、
死んだ方がましだと決意したのだろう。

何の希望も望みも見出すことができなかったのだろう。

何ものをも信じることができなかったのだろう。
 
このように言うと、
「お前なんかに分かられてたまるか!」
と、怒鳴られそうだが、
でも僕はその孤独の淵の絶望を分かるような気がする。

そうするより他に仕方がなかったのだろうとも思われる。
 
 しかし、それでも、自ら死ぬなどと、そんなことがあっていい筈はないのだ。
そんな横着なことが許されていい筈はないのだ。

その選択は間違っている。
それは独りよがりの傲慢さでしかないのだ。
 
 
 だが、そうして自ら死んでしまった人たちだけでなく、
今の僕の周りには、
「自分は死ぬべきだ」
との思いに捕らわれて、
頑なに自分自身の内に閉じ籠っている人が何人も居るのだ。

 誰も認めてくれない、理解してくれない、愛してくれない。

私は不幸な宿命の元に定められていて、
もう何の望みも希望も願いも信じるものも何もありはしないのだと、
被害感と虚無感に覆われて自分も人をも軽蔑し憎んで頑なに心を閉ざし、
手首を切ったり薬を大量に呑んだり涙に暮れて蹲り続けている人が沢山いるのだ。
 
 彼らは輝かない自分を憎み呪って、
そして同時に自分を認めず愛してくれない世の人々をも軽蔑し憎んでいる。

彼らは自分の求め願っていることを叶えることができない故に、
何ものをも信じず、何ものをも尊ばず、何ものにも恥じることない。

胸を震わせて感謝することも喜ぶことも謝罪することも祈ることもない。

何故なら、自分は被害者だから。
 
 何ものをも尊ばないこの精神が僕たちの現代を覆っている。
何ものをも信じない精神が僕たちの心を覆っている。

絶望と無意味感。虚無。

それが僕たちの時代を覆って、不幸な自分自身以外には
何ものをも見ることができなくなっているのは間違いのないことだろう。

確かに被害者意識に捕らわれた彼らには彼らの正当な正義がある。

深く傷つけられた故に愛を信じることができないのだろう。
 
 しかし僕たちは素直に誠実に問わねばならないのだ。

『何故、自分自身の存在が無意味で虚しいと、苦しむのか?』

『何故、頑なに自分の内に閉じ籠って、人も世をも軽蔑し拒み憎み呪うのか?』

『何故、何ものをも信じないのか』

と。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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