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何を描くのか?

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「何故、こんな枯れた植物ばかりを描くのか?」。
展覧会を開く度にそう言われる。

「淋しくてかなわない」
「暗くて鬱陶しい」
「侘びしくて遣り切れなくなる」
と。
 
 そう、確かにその通りなのかも知れない。
 
 しかし僕はそのような心情を絵に表そうと思って、
枯れた葦や蓮を探している訳ではない。

これは少々分かりにくい話だが、
僕は侘びしさや虚しさを描こうと意図して、
それを最もよく表していると見える「モデル」を取って来て
描いているのではないのだ。
 
 
 僕が初めて「枯れた葦」を描いたのは、
「僕自身の人生を描かねばならない」と考え始めた頃のことだ。

いつもの勤め帰りの川沿いの道を車で走っていると、
突然、それまでに感じたことのない妙な寒気が襲って来た。

それは川の方から漂って来るようだった。

僕は車を停めて、堤防の淵に立った。

晩秋の暗い帳が川面にまで下りて来ていて、
川岸を埋め尽くす枯れた葦が霙まじりの風にぼうぼうと揺れている。
子供の頃から見慣れたいつもの風景だ。

僕はただ呆っと佇っていた。

すると、黒ずんで姿形も失われてしまった群生する葦のうねりのうちに、
一本の葦だけが仄かな光に包まれていることに気づいた。

これが妙な寒気の源なのだ。

僕の頭には絵も詩も人生観も何もなかった。
僕は、眼だけになっていた。
いや、正しく言うなら、眼さえなかった。
ただか細い一本の枯れた葦があるだけだった。
 
 僕は背を越える葦の茂みを掻き分けて、その一本に向かって進んで行った。

その葦に手が届くほどに近づくと、光は消えた。
手に取ったそれは何の変哲もないただの枯れた葦だった。
僕はそれを折って持ち帰った。

その夜僕は鉛筆でデッサンを取り、翌日からは絵の具で描いた。
 
 その時から今に至るまで僕はずっとこのようにして絵を描いて来た。

もちろん仄かな光に包まれたものを見ることはそんなに頻繁にある訳ではないが、
光に包まれていなくとも、描くべきものはいつも向こうから僕の胸を射抜いて来る。
僕はそれをできる限り忠実に描くだけである。

何を描こうかと、絵になる風景や植物を探し歩いたりすることは殆どない。
 
「自然は絵のためのモデルではない。体に堪えてかなわぬ冬の寒さだ」。
小林秀雄の『ゴッホ』の一節が思い出される。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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