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存在の無意味感

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僕は僕が生きていることの意味が欲しかった。
僕の存在が無価値で無意味としか思えないことが
苦しくて叶わなかった。
 
お前はカスだ、お前は必要ない、
お前は劣っている、
誰にも必要とされない、
何の能力もない蛆虫だと思われ、
自分でも、そのような自分でしかないことを
認めざるを得なくて、
そんな無価値な自分を
死なねばならないと、
否定して、軽蔑して、憎み、呪ってさえ来た。
何者でもない自分。
 
それ故に、他者は誰も皆、一人残らず
信じることができなかった。
僕の心と人との間には決して乗り越えることのできない
高くて分厚いガラスの壁があった。
誰も彼も、軽蔑にも値しない愚か者としか思えなかった。
僕の生きているこの世の全ては愚劣で下らなく汚らわしいものだ。
美しく尊いものがこの世にあるなんて、
信じることができなかった。
何ものをも信じることができなかった。
  
 
望むことも求めることも、
もうしてはいけないと、諦めてきた。
誰も、誰一人として分かってはくれない。
 
僕は
何の価値もないダメな人間だから、
生きることは
許されはしないのだ、
生まれてすみません、そう思ってきた。
死ぬべきだと思ってきた。
死ねないのは、ただ勇気がないだけ。
 
だが、しかし、素直に真摯に自らの内を考えるとき、
そのように絶望するということは、
実は、僕は僕のうちに強い望みを持っているということを
証しているのではないかということに気づく。
自分の存在が「何者か」でありたいと求め、
価値があり必要であり、意味があるのだと他者から認められたいと
願い求めている故にこそ
絶望しているのだということに
気づくのだ。
 
「絶望」。
その文字が示すとおり、それはまさしく、望みが絶たれたということによって
生じる思いである。
だからそれは、願い求めたのに、望みが叶わなかった故に
生み出される感情以外の何ものでもないだろう。
自分が憎いわけでも、大切でない訳でもない。
 
それはむしろ、大切で叶わない自分が認められないから、
僕たちは絶望し、自分の存在に意味がないと自分自身を切り刻んでいるのだ。
傷つき唾棄された自分自身を守るために
頑なに自分自身のうちに閉じ籠って、拗ねて僻んで
自分自身を可哀想だと憐み慰めているのだ。
自分は被害者だという思いのうちに閉じ籠っていたいのだ。
被害者でいれば、常に正義のうちにいることができるから。
 
僕たちは誰一人の例外なく、
自分自身を大切に思い、愛しているのだ。
認められたい求められたい、そして愛されたいのだ。
 
この根源的な欲求を素直に認めること、
そこから誠実に考えてみなければならない。
赤ん坊のような素直さと謙虚さをもって
自分自身の心の内を尋ねねばならない。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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