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「自分の存在の意味」の正体

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人は誰しも自分の存在と人生に意味を求める。
意味を見出した人は自尊心を満足させて
生き生きと日々を過ごすことができるのだろうし、
それを得られないと思う人は淋しさや苦しみに襲われて、
虚しさにのうちに泣き暮らすことになる。
人生の意味、または自分の存在の意味とは何なのだろう?

僕自身の人生を振り返ってみれば、
僕は18歳の春から「自分の存在の意味、人生の意味とは何か」という問いに
心を占められて、
何としてでもそれを捉えねばならないと、
まるで尻に火をつけられたかのように焦りに焦って本を読み漁っては、
思い考えたことを原稿用紙やノートに書き綴って、
足掻き続けて来たように思われる。
まさに、自分の存在の意味を得られなければ、
もうこれ以上生きることができないというような思いだった。
だが、年老いてしまった今になってそんな自分の精神状況を振り返ってみれば、
僕は、「存在の意味、人生の意味」というものは、
「これこれこういうものなのだ」というような表現の仕方で
どこかに明確に記されているものだと思っていたようなのだ。
万人共通の普遍的で、具体的な「意味」というものがあると。
しかし、偉人と言われている哲学者や小説家や評論家の本を
どんなに読んでみても、学者さんの講演などを聞いてみても、
これが人生の意味だという解答を見出すことはできなかった。

それらの書物や話には意味を見出せない人間の孤独や苦悩や虚しさや絶望は、
それこそ死にたくなるほど沢山描かれていたが、
「これこそが人生の意味だ」というものを見つけることはできなかった。
僕は何の価値もない、愚かでつまらない人間なのだという、
そんな自分自身を否定して罵り嘲る虚無感に首まで浸かって、
喜びも楽しみも癒しも安らぎも、そんな肯定的な思いを殆ど持つことなく
日々を過ごしてきた。
僕の心にあったのはただ、僕の存在は無価値で何の意味もないという
虚無感と被害感と焦りだけだった。

しかし、一度立ち止まって冷徹に考え直さなくてはならないのは、
僕たちが「存在や人生の意味」と言っているその「意味」そのものである。
僕たちはその言葉を何も吟味することなく使って、
絶望だとか、何ものをも信じられないとか、
苦しくて生きていけないとか嘆き悲しんでいるが、
果たして僕たちがそれ程までに求めている「意味」の正体とは何なのだろうか?

僕たちは日々のあらゆる行為にも存在そのものにも意味を求める。
つまり、価値を求める。
価値があるなら、意味があり、価値がないなら、意味がないと判断する。
そこで、「価値がある」こととは何かと突き詰めるなら、
それは何か客観的普遍的な価値を得ているということではなくて、
自分の存在が誰かにとって役に立つ、有益だと思うことではないのだろうか?
ということは即ち、自分の存在が他者や社会に
「認められ、求められ、愛されること」を価値と言い、
意味があると考えているのではないだろうか?
僕たちは自分が他者や社会に否定されたり拒まれていると思う時、
自分の存在を何の価値も意味もないと思うのではないだろうか?
人の存在と人生の意味は「これこれこういうものだ」というように、
客観的にあるものではなくて、
自分が「認められ、求められ、愛されること」、
そこにこそあると、考えているのではないだろうか?

もしこれが本当なのだとしたなら、
僕たちの求め願っている自分の存在や人生の意味は
他者、或いは社会に拠っていることになる。
R.ジラールが『欲望の現象学』で言うように、
「自尊心は他者に依存している」ことになる。
これは究極の真実であろう。
僕たちは信仰を持つことがないならば、
自分の存在や人生の意味を他者に認められることで得ているのだし、
意味を得られないと思っているのだとしたら、
それは、他者に自分が認められていないと思うが故に、
得られないと思っているのではないだろうか?

このことを自覚することは何より重要なことである。
何故なら僕たちは、自分の存在や人生には何の価値も意味もないと断じて
自分自身を否定する時、
或いは鬱病に囚われ、自虐に陥った果てにリストカットをしたり、
何ものをも信じることができなくなった時に
虚無感のうちに心を閉ざしてしまうからだ。
だがその無意味感や虚無感や絶望感は、
実は自分が他者に認められない、求められない、愛されていないという
思いによって齎されているものなのだ。
だから、自分の存在の価値、存在の意味と僕たちが思っていることの
正体を知ることは、何よりも大切なことなのである。
それを認識しないなら、
僕たちは悪魔が仕掛けた暗黒に煌めくような罠に
まんまと陥ってしまうことになるからだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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