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隠居

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  今年の四月に三十年間勤めて来た図書館を退職した。
これまでの僕にここでわざわざ特筆すべき地位や名誉やお金があったわけではないが、
それでも図書館職員という一つの社会的な椅子は備えられ、
それに伴ったサラリーも毎月頂戴して、
僕は自分が社会の中に一つの居場所を占めていて、
そのことによって幾らかは社会の役に立っているという保証と安心を得てはいたと言える。

  ところが、それらのものは退職するのと同時に、その翌日には、すべて失われてしまう。
職にある時も僕は別に光り輝く何者かであったことなど一度もなかったに違いはないが、
しかし退職は光りや輝きどころではない、
それまで自分のものとしていたものも、自分を保証してくれていたものも、
何もかも奪い去ってしまうのである。
もちろん図書館職員に権力や権威や人脈やお金など望むべくもないが、
それらのものがあったのだとしても、すべては剥ぎ取られてしまう。
僕は、それまで以上に「何者でもない」、「ただのおっさん」である。

  人に「お前は何者か」と訊かれても、
僕はもう「図書館の前です」と言うことができなくなった。
僕がどのような人物であるかを言おうとしても、言うべきことは何もありはしない。
語るとすれば、せいぜいで住所と電話番号くらいのもので、
それは紛れもない、「何者でもない者」だ。

 社会の中で自分自身が何者であるかを語ることができない
「ただのおっさん」は「無用者」、つまり「役立たず」である。
おっさんは果たすべき煩雑な仕事や重苦しい人間関係や責任から逃れて
自由になることはできたが、
しかしその安楽さは、「おっさん」が誰からも必要とされず、
認められず、求められもしないということも意味している。
いてもいなくても、誰も困りはしない、どうでも好い存在なのだ。

「これからもまたいらして下さいね。色々と教えて下さいね」と、
送別会で若く美しい部下から言われたお愛想を信じて職場に顔を出したりしたら、
「何をしに来たの?」と顰蹙を買ってしまうことは疑いない。

彼女たちが職場の上司に「はい」と返事をするのは、
ただ社会的なルールに従っているだけのことであって、
決して上司の人格に敬意を払っているのではないのである。
間違ってはいけない。職場を去ってしまったおっさんには挨拶をする必要さえないのだ。
誰も、「おっさん」を認めたりはしない。

  だから「おっさん」には行くところも、為すことも、果たすべきこともありはしない。
社会的な居場所を失ったおっさんはただただ自分の家に閉じこもるばかりだ。

「たまにはどこか気晴らしに出掛けられたらどうですか」

と、妻は言うが、
おっさんには行きたい所など何処も思い浮かびはしないし、したいことなど何もない。
何を思い描いてみても、すべては色褪せ、垢じみて、下らなく思えるのだ。
孤独の淋しさだけが堪え難く胸に沁みて来る。
救いは、テレビと、昼から飲むビールだけである。


  僕は若い頃から定年退職した後の自分の姿をこのように思い描いて来たのだが、
退職してから半年が経った今、僕はまさしくその通りの状況にあると言える。
絵を描く以外に何一つ趣味も愉しみもなく、
話す人も殆どが職場を巡っての関係だったので、訪ねる人も訪ねて来る人もなく、
出かけて行くほどに興味をそそられるようなものも、何一つありはしない。
人々はゴールデンウイークだ、夏のイベントだ、秋の行楽だと、
忙しくあちらこちらを巡って楽しんでいるようだが、
僕は今日が十月の何日なのかも分からず、
ひとり家に籠って草むしりと絵を描くことで日を過ごしている。


  若い頃から定年を過ぎた先輩諸氏に

「定年後の解放感を楽しめるのはほんの一カ月位なもので、
 その後は何もすることがなくて、苦しい日々になるぞ。本当に、淋しいぞ」

と言われてきたが、その言葉に偽りはないと言えるだろう。
社会的な椅子を失うこと、誰からも必要とされず、求められず、
認められない「無用者」になるということは、
即ち、自分の存在が何の意味もないという人間にとって
最も厄介で最も苦しい問いに責め苛まれることであるのだろう。
自分の存在は無意味なのだという苦しみ、
それは実は「死」を意味しているのであり、
これこそが僕たち人間の人生における最大の問題なのだろうから。

  「脱俗」、或いは「超俗」は荘子の時代から途切れることなく
連綿と人々を惹き付けてきた思想であり、理想であり続けてきたと言えるだろうが、
しかしそんな悟りの境地を泰然と愉しむことなど、
人間には殆ど為し得ないのではないかと、秋の高い空を見ながら考える。

  一昔前までの社会には、落語に決まって登場する
「隠居」という優れた位置がきちんと確保されていたが、
現代においてはそれも消え去ってしまったようである。
社会的な椅子を失くした「役立たず」が安らいでいられる場所は
もう何処にもありはしない。

誠に、困った時代になったものである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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