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絶望の認識 (三)

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

 人は、自分自身の歩んでいる道の本当の意味も、自分自身がいつ生まれ、いつ死ぬのかも知ることができない。


 毎日がただの繰り返しでしかないような生活の中で僕たちは「平均寿命」という観念を頭に浮かべて、あと何年などと思いつつ平気で暮らしているが、個人の命に統計の数字が役立たないことは自明のことである。確かに大多数の日本人は八十数歳まで生きるのが昨今の現実だが、僕をはじめ個々人が何歳まで生きるのかは平均寿命とは全く関係のない話だ。僕は明日、餅を喉に詰まらせて死んでしまうかも知れないし、百歳の誕生日に階段から落ちて死ぬのかもしれない。僕たちは自分で自分の死ぬ日を決めることも、それを予め知ることもできはしない。


 二年前の夏だった。学生時代の友人Mの奥さんが急死したと、共に学生時代を過ごしたNが知らせて来た。Mの結婚は遅かったが、奥さんになる人は歳若いと、友人内で馬鹿な冗談を言っていたのだから、まだ五十歳にもなっていないはずだった。僕はNからの電話を切ると、すぐにMに電話を掛けた。


 受話器を通した友人の声は重く沈んで抑揚もなく、誰か別の見ず知らずの人に掛けてしまったかのように思われる程だった。


 電話の向こうで、友人は
「特に体の具合が悪いということもなかったのだが、昨日の朝、起きて来ないので見に行くと、息をしていなかった」

と、人ごとのように言って、その後は何も話さないのだった。受話器が鉄の塊のように重く冷たかった。何の病気だったのか、そんなことを訊いてみたところで何の役にも立たないことは分かっていたが、僕は訊かずにはいられなかった。しかし彼は僕の問いに答えることもできず、ただ「分からないんだ」と何度も繰り返すばかりだった。


 友人は若い頃から何があっても冗談を飛ばして飄々と生きているように見えて、僕には羨ましい存在であったのだが、今回ばかりは違っていた。彼の口は重く、声は沈んでいた。僕は受話器を握りしめるばかりで、何の慰めの言葉も伝えることができなかった。長い沈黙のあと、電話を切る前に、彼は、
「娘がいるから...」
と、言った。まだ中学生の娘さんがいるので、しっかりしなくてはならないという意味だろう。それは僕が言うべき言葉だった。だが、僕が言い得たのは
「また、行くから」
と、それだけだった。
「ありがとう」
彼はそう答えてくれたが、その声には力も熱も籠ってはいなかった。


 それから一年が過ぎた冬、激しい雪が幾日か続いた夜、Mから電話があった。北陸の雪が凄いと連日報道されているのでと言う。こちらの雪の心配ができるようになった位だから、奥さんの死を何とか乗り越えられたのだなと僕は思って、
「もう大丈夫なのか」
と訊いた。すると予想に反して友人は、
「駄目だ」
と自嘲気味に答えて、笑いを洩らすのだった。
「実は、君に喝を入れてもらおうと思ってね」
彼は言うのである。毎夜眠れずに朝方まで酒を呑んで、娘さんを学校に送り出してからまた夕方まで眠るという生活になってしまったと、ポツリポツリこぼすのだ。
「何とかしないといけないとは思うんだが・・・ でも、本当は、どうにもしたくない」


 どのような悲しみや苦しみも、確かに時の経過が癒してくれるものなのだろうが、最も身近な者を失くした空しさが埋まるには相当な年月が必要なのだろう。彼は「喝を」と言いはするが、まだ、重苦しい闇が明けることを心の底から望んではいないのだ。そして僕もまた、そんな彼に喝を入れるどころか、慰めの言葉を思いつくことさえできなかった。僕は仕方なく、姉が大学を卒業して間もなく死んでしまったときのことを思い出して少し話したが、そんな話が彼の荒んだ思いを宥めることができようはずのないことは考えるまでもなかった。僕は胸を詰まらせたまま何も話すことができなかった。
「春になったら、会おう」
僕たちが受話器を置く前に言い得たのは、そんなことだけだった。


 自分にとって最も大切なもの、尊いものを失くすと、虚しさが心を覆って、何かを願ったり望んだりすることができなくなってしまう。日々の営みのすべてが馬鹿々々しく思えて来て、何をすることもできなくなってしまう。もちろんお腹が空けばご飯は食べるし、夜眠れなければ昼に眠り、可笑しければ笑い、冗談だって言わない訳ではない。しかし、ニュースが伝える世の中の動向は勿論のこと、歯磨きも食事も会話も風呂も、世の中のありとあらゆることが色あせ意味を失くして、夢も希望も意志も意欲も理想も感動も情熱も美しさも善悪も、何もかもが消えうせてしまう。何がどうなったって構いやしないと、砂まじりの冷たい嵐が胸を吹き荒れる。怖ろしいのは、胸が張り裂けるほどの悲しみが鎮まって来た後にじんわりと胸に浸みて来るこの虚無感だ。人は大切なものや尊いものを失うと、十全には生きることができないのだ。もう何処にも行くところがない。


 だがそんな虚無感に身を覆われて、すべてを投げ出したいとの衝動が堪えがたいほどに突き上がって来たとしても、僕たちは、生きている。死なない限り、生きている。まったく理不尽なことだが、僕たちが生きている以上、今現在には明日が含まれている。そして過酷としか言いようがないことだが、僕たちがそんなことを望んでいなくとも、命は、僕たち一人々々に固有の義務と責任を果たすよう要求して来ているのだ。


 苦しみの最中にあるとき、僕たちはそれを希望と捉えることはできないが、虚無の嵐のその奥にある生命の意志は、まだ見ぬ明日に向かって進むことを促しているのだ。命はいつ如何なる時も如何なる状況にあっても、前に進むことを強いている。だから僕たちは何の希望も見えない絶望の淵にあっても、自らに問わなければならないのだ。今、何を為すべきなのかと。
「生きていることが阿呆らしい」
友人は正直に言う。だが、どんなに阿保らしく、馬鹿々々しくても、虚しくても、それでも僕たちは、問わねばならないのだ。僕は今、何を為すべきなのかと。


  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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