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世の価値基準を疑う

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 先日、世界的に活躍しているというフラワーアーチストがこんなことを言っているのを聞いた。
「作品を作っても、自分一人で眺めているのだとしたら、それは自己満足に過ぎない。
作品が多くの人に買われてビジネスになる時、それは初めて文化になる」。
その言葉通り、彼は沢山の大企業のロビーに花を生け、作品の写真をポスターにして販売し、
世界中から注目されているのだという。
なるほど、世界を相手にビジネスを確立した彼の活動と言葉は的を射ている。
これがこの世の真実であるのは、間違いがないだろう。


 そして彼の言葉の正当性はフラワーアートの世界に限ったことではない。
企業や商店の作る機械や商品でもスポーツでも、街おこしや飲食店でも、
この世のありとあらゆる活動にそれは当てはまる。
僕たちの目の前にあるバッグやスーツ、或いは車やテレビ、万年筆やまんじゅう、ラーメン、
絵画、歌、人、街など、何でもいい、僕たちの周りにあるものを取り上げて少し考えてみれば、
すぐに分かることである。


 僕たちはものや人を見るとき、常にそれを良いとか悪いとか評価し、
それを買ったり消費したりする訳だが、その判断の基準は殆ど自分独自というよりは、
多くの人々に認められているか否か、つまり「ブランド」であるかどうかに基づいている。
僕たちの周りにあるすべてのものは世に認められること、
即ちビジネスとして成り立つことによって初めて「商品」になり、「芸術」になり、「プロ」になり、
「観光名所」になるのである。
言い方を変えるなら、より多くの消費者を惹きつけて多くのお金を獲得することのできるものが
良いものであり、僅かしか獲得できないものが悪いものである。
多くの消費者を惹きつけることができないもの、お金を稼げないものには
価値も意味もないということだ。
それは自己満足に過ぎない。


 冒頭のアーチストが言うように、「ビジネス」として成り立つこと、
つまりお金を稼ぐことができるものが価値あるもので、稼ぐことができないものは
無価値・無意味なもの、つまり「ゴミ」でしかないということである。
僕たちにとっての価値や意味があるということとは、
それがどれだけのお金を産むかということ、どれだけのお金を持っているかということ、
その多寡に依っているということである。


 僕たちの心はその芯まで市場経済に浸透されてしまっているので、
僕たちはすべてのことをお金に換算して測らずには居られなくなっているようなのである。
もちろんその判断の基礎には質の良し悪しという基本的な価値の基準が据えられているとも
言えるが、しかし僕たちの価値の基準がどれほど強く市場経済・お金によって
支配されてしまっているかを考えるとき、そのことは余り重要な要素ではないだろう。
たとえ質や程度が良いのだとしても、お金を生み出さなければ、価値は生じないのだし、
質が悪いとしても、多くを稼ぐのだとしたら、それは価値を持つのである。


 今や市場経済の価値基準は商業活動ばかりでなく、本来それが及んではならない教育や
芸術や医療や福祉の分野や個人的な人間関係にまでも浸透してしまっているように見える。
「そんな馬鹿な」と思われる方は、今一度、つぶさに自らの心を疑って、考え直されると好いだろう。
あなたが良いと思い、欲しいと願うものとは一体何なのだろう。
欲しい物、得たいと願っている栄誉、また、偉い人、憧れの人、凄い人とあなたが思っているのは、
どういう物であり、どんな人なのだろうと。
 

 
 愚かなことに僕は二十歳の頃から芸術家になることが僕の人生の目的であり、
それを実現するために日々精進することが僕の人生の意味だと思って来た。
芸術家とは即ち、人間の本質を深く探究して「真善美」を見出し、それを表現する人間であり、
そうなることが僕の人生の義務と責任だと信じて毎日毎晩本を読み文章を書き絵を描いて来た。
人生の真実を追究することが僕の生涯を懸けた使命なのだと信じ続けて来た。
僕は四十数年間自らに課した義務と責任を自分なりに果たして来た積りだが、
しかし僕は僕の絵や文章をビジネスとして確立することができなかった。
市場経済においてお金を稼げるブランドとして確立することができなかった。
つまり、「芸術家」としてこの世に認められる存在になれなかったということである。
だから僕は還暦を過ぎたが未だに福井という田舎に暮らしている名もなきただの助平なおっさん
でしかなく、僕が描いて来た絵もまたただのゴミとして捨て去られるべき宿命にあって、
誠に申し訳ないことに、息子は僕が死んだ後、この僕の残した大量のゴミを焼却場に
運ばねばならないという苦労を背負わされているというのが現実である。


 僕は世に認められないことを僻んで拗ねているのかも自惚れかも知れず、誠に残念で悲しく、
無念なことではあるが、しかし、仕方のないことである。
世に認められない名もなきおっさんが描いた絵にお金を出そうと言う人がいるはずもない。
ゴミを買うことになるからだ。
それは、仕方のないことである。
どんなに理屈をこねまわしたところで、現実を変えることはできない。
この現実を受け容れるより他、僕には何の方策もない。


 しかし僕個人が悲しむとか苦しむだとか、本当の問題はそのようなレベルの話ではない。
この、この世の殆どすべての人々が信じて疑わないお金という価値をあらゆる事柄を
判断するときの基準にすることは本当に正しいのだろうかということこそが、問題なのである。


 僕たちは本当に真面目に誠実に自分自身の心の奥底までを見つめて、
一生に一度は考えなくてはならない。疑わねばならない。
僕たちの日々為す評価・判断の基準が世に認められること、
即ち市場経済の価値基準(お金)だけになってしまっているとしたなら、
人間にとって最も大切なものが損なわれてしまう、つまり、人間を人間たらしめている
最も大切なもの、「美しく尊いもの」が無価値になってしまうということである。
愛や憐憫や誠実さや信頼や親切や努力や勤勉さといった、人間が人間であるために
欠かすことのできぬものがすべて意味と価値を失ってしまうと思われるのである。
「真・善・美」という人類に共通の良心が意味を失くすということである。
ドストエフスキーが言うように、
僕たち人間は「尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできない」からだ。


 八木重吉の詩が無性に思い出される。
私自らの中でもいい/私の外の世界でもいい/どこかに本当に美しいものはないのか/
それが敵であっても構わない/及びがたくてもよい/ただ在ることさえが分かりさえすれば

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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