「人生の無意味感と自己実現(結)」
Sorry, this article is now avairable in Japanese text only. 図書館に勤めていた頃、僕は二十歳以上年下の女性職員たちから事あるごとに、
何度も「被害妄想だから」と言われて来た。
確かに、中学時代からの友人は僕を「ひさのり」でなく、
「ひがのりちゃん」と呼んでいた位だから、
僕の被害妄想は筋金入りだと言えるのだろう。
何故僕はこのようにも世の中を斜に眺めて、被害者意識に捕えられ、拗ねて僻んでいるのか。
誰にも認められず、求められず、本当の僕は何処にもいないと、
孤独の淵に自分自身を追い込み続けて来なければならなかったのか。
今日もまたおめおめと生きながらえていると、自分自身を呪い続けて来なければならなかったのか。
劣等感と被害感と屈辱だけが僕の人生だと毎夜々々眠れぬ夜を、
自分自身を呪って来なければならなかったのか。
何故自分自身を愛して、人生の日々を喜んだり楽しんだりすることができなかったのか。
まるで「絶望」という言葉しか知らないかのように、
嘆きの内に生きることしかできなかったのか。
まったく情けなく恥ずかしい次第ではある。
これまで六十余年を生きて来たが、僕ほどに僻み、拗ねて、
劣等感に苛まれている人に僕は出会ったことがない。
人々は皆誰もが自信たっぷりで、堂々と自分自身に満足して生きているようにしか見えなかった。
人生を楽しみ喜んで暮らしているようにしか思えなかった。
だのに僕は寸時の休みもなく会う人会う人の顔色をびくびくと怯え窺って、
その意に沿うようにおべっかいを使うことが人生のすべてだった。
僕の自尊心は屈辱に満たされていた。誰も分かってはくれない。
誰も認め、愛してはくれない。そんな被害感に僕は苦しめられ続けて来た。
そして僕はそのような霙に打たれた野良犬のような惨めな自分を許すことができなかった。
自分の存在には何の価値も意味もないのだと、自分自身を切り刻んで呪って来た。
十八歳の春から僕は、自己を確立すること、人に迎合せずに自分自身の考え持ち、
自分を信じて断固として語ること、お道化たサービスで自分の人生を埋め尽くさないこと、
世の価値観を超越して世界と普遍に至ること、それだけを求めて来たはずだったのだが、
誠に情けなく、恥ずかしいことに、老人と呼ばれるこの歳になっても
僕は未だ確たる自己を確立できないお調子者でしかない。
年若い女性や男性から馬鹿にされ、軽蔑されて、踏みにじられて、死ぬほどの屈辱に
眠れぬ夜を幾晩過ごしても、それでもまだエヘラエヘラと愛想を込めた笑いを返している。
人を愛さねばならない、どのような人にも敬意を払わねばならないと、
おどおどと怯えながら必死のサービスを尽くしている。
自分自身の欲求を人に求めることは許されないのだと。
人生は所詮サービスなのだなどと嘯いて、自分の内に閉じ籠っている。
「プライドはないのか」、
「明日こそは、知らしめてやるのだ」
「彼は昔の彼ならず。君子は豹変するのだ」
「お前らに分かられてたまるか」
と、何万回繰り返して来たか分からぬ台詞を深夜一人で吐いて、
自分自身を貫くことを決意して来たが、
いざ、人を前にすれば、必ず、お定まりのお追従笑いをしてしまうのだった。
これまで生きて来た六十余年の人生を振り返ってみるとき、
僕が僕の人生に見出すことができるのは、
劣等感と屈辱と被害感と、それによる自己否定と虚無感と、
そしてサービスだけだったように思われる。
本当の自分自身を他者の前に表すことができない。
こんな惨めな僕の人生に意味や価値があるとは、どのように考えてみても、思えなかった。
十八歳の僕は肥った豚になることは厭だった。
愚かで軽薄で自惚れた人間であることは、どうしても厭だった。
僕は知性と教養を備えた高潔な人間にならねばならなかった。
愛に満ちた人間であらねばならなかった。
僕はそれまでの愚かな自分のすべてを捨て去って、
まったく新たな、まっとうな人間にならねばならにと自分自身に強いた。
自分の考えを確立し、それを誇ることのできる人間になりたかった。
僕は、恩師の語る本のすべてを読み、すべての絵を見、骨董を眺めた。
旅行や映画や釣りやマージャンや酒を飲んで酔っ払って自分自身を楽しませることも喜びに満たすこともできなかった。
僕は学ばねばならなかった。キリキリと書かねばならなかった。
人の至る極北の世界を描かねばならなかった。
恩師の示す世界と普遍のレベルに至らねばならなかった。
それは僕の人生の義務と責任だった。
だが、いつ眠ったのかも分からないほどに必死に本を読み、
文章を書き、絵を描いても、世に僕の名を示して、
僕の存在には価値があるのだと証明することのできなかった僕は、
それ故にこそ、日々屈辱に打ちのめされ、
打ちのめされた自分自身を裁き否定するしかなかった。
誰にも認められず、求められず、愛されず、輝くことのできない自分を断罪し、
呪うことこそが僕のすべてだった。
誰にも認められないという屈辱に支配された僕は、
更に激しく本を読み、文章を書き、絵を描かざるを得なかった。
才能など、薬にしたくとも、なかった。
僕は天才でも秀才でもなかった。
他者より秀でたことなど何も備えられてはいなかった。
しかし、僕は僕の存在の意味を獲得したかった。
しなければならなかった。
心のキリキリと軋む音、それを描かねばならないと自分に強いた。
僕を苦しめてかなわぬ世の人々を超越していることを証明しなければならなかった。
屈辱と被害者意識が僕を焦がした。
「本当の僕」の存在の意味は、それを叶えなければ得ることができないのだと、
その思いだけが僕のすべてだった。
しかし、それから四十数年が経った今も、
僕は十八歳の頃から苛まれ続けて来た劣等感と屈辱と被害者意識の齎す虚無感に覆われて、
氷の部屋に頑なに閉じ籠って自分自身を呪っている。
何ものでもない自分を嘆き、喜びも愉しみも何も持たない自分を罵っている。
分かってくれる者などいはしない。
美しいことも真実なことも尊いことも何もないのだと、氷の部屋に自身を閉じ込めて、
自分自身も他者も世も、軽蔑し怨み呪っている。
毎夜々々意識が暗闇に失われるまで酒を呷っている。
世の何ものも僕を惹きつけはしない。すべては詰らなく下劣で愚かで汚らしい。
僕たちの人生には「絶望」以外の何ものもありはしない。
誰も、僕を死ぬほどに抱きしめてはくれない。
希望も信頼も夢も美しきことも尊きものも、即ち、「愛」などありはしないのだと、
拗ねて僻んでいる。
屈辱に身を焦がしている。
しかし、このような思いは実は、悪魔からの誘惑の囁きなのではないかと、
最近つくづくと思うようになった。
肥大化した自尊心に欺かれてはならないと、考えるようになった。
「自己実現」こそが自分自身の存在に意味を齎すのだという
現代の僕たちが疑うことなく信じている価値の基準は人を虚無の苦しみに陥れる以外になく、
それは「愛」から最も離れた道なのだと考えるようになった。
何故僕は、劣等感に苦しめられ、孤独と悲しみに満ちた自己否定をし続けて、
僕の存在には何の価値も意味もなく、死んでお詫びをしなければならないと、
自分自身を裁き呪って来なければならなかったのか?
何故、人々と交わる度に屈辱に身を焦がして、眠れぬ夜を転々と、
軽蔑と憎しみに身を置いて、苦しんで来なければならなかったのか?
何故僕は死ぬほど抱きしめて欲しいとの欲求に毎夜々々身を貫かねばならなかったのか?
何故、いつもいつも目の前の相手の顔色をうかがって、
怯え、震え、お愛想の仮面を被ってサービスの限りを尽くして来なければならなかったのか?
何故僕は、自分自身を真面目に内省して人生の真実を求めることのない
軽薄な自惚れ屋たちに最大限の敬意を払って、
褒め称えサービスする屈辱を自分自身に強いて来たのか?
何故僕は、浅薄で傲慢でしかないエゴイストたちの愚かさを許して、
彼らの足を洗い続けて来なければならなかったのか?
何故、感謝することを知らない自惚れた軽薄児に、
「この愚か者、離れ去れ」
と、打ち捨てることができなかったのか。
まったく、何とも、自尊心というのは厄介極まりないものである。
全き謙遜さを身につけ、愛に生きることこそが人の生きるべき道であり、
そのように生きるなら、自分自身が生まれて来たことも、ここまで生きて来られて、
今存在していることを心の底から感謝し、浅薄極まりない人々を心の底から許して、
歓喜包まれることは、十二分に分かっている筈であるのに。
僕は何故頑なにその道を拒んでいるのだろう。
全き謙虚さに至ることを、未だに拒んでいるのだろう。
それは、愛から最も隔たったことであると確信しているのに。
愛されたい。死ぬほど抱きしめて欲しい。
認められたい。求められたいと、僕たちは願う。輝きたいと願う。
自分の存在が意味に充ちることを求める。
本当の自分を分かってほしいと心から血が滴るほどの思いを持って、願い求める。
だが、そんなことが実現することは決してあり得はしない。
僕が頭の中に作り上げた「本当の自分」とは、過剰な自己愛が作ったものだからだ。
そんな驕りによって高められた「本当の自分」がこの現実の世界で実現される筈はないのだ。
僕はドストエフスキーになることは決してできないのだし、
たとえなれたとしても、それで僕の自尊心が満たされることはないのだ。
この「自己実現」の思いが叶わないことが人生の絶望と虚無感の源であり、
僕が求め願うことがそれだけであるなら、僕には一寸の希望もありはしない。
僕たちは必ず、間違いなく、絶望の淵に追い込まれる。
被害者意識に囚われて世を恨み憎み、僻み拗ねて氷の部屋に閉じ籠って、
自らを呪い続けるしかないだろう。
明るく輝く「希望の灯火」を見出すことは決して叶いはしないだろう。
だが、被害者たる自分自身への憐憫を打ち捨てて、
全き素直さと謙虚さに身を置いて眼を開けば、僕たちは見る筈なのである。
自己実現できない屈辱と被害者意識を打ち捨てて、
自分に向けられた他者からの思いに眼を向けるなら、
僕たちは見出すことができる筈なのである。
どのように自分自身を否定して自分自身を呪っていても、
虚無に晒された傲慢な己であろうとも、
僕たちは僕たちの心の最も深いところに秘められている生命の根源的な意志に気づく筈なのである。
自己実現だけが人生の意味なのだと囁く悪魔の誘惑を断固として拒む生命の根源的意志が
躍動せんとしていることに気づく筈なのである。
それは、自分自身を本当の意味で愛して、
そして自分自身を愛するように他者を愛したいという「意志」なのだ。
その意志は、僕たち命あるもののすべてを、
より高く、より広く、より深く生きよと僕たちを促しているのだ。
愛だけが人を真に生かすのだと、僕たちを前に推し続けているのだ。
過剰な自己意識、過剰な自己愛、高められ過ぎた自尊心、
それは神なき現代を生きる僕たちに囁かれる悪魔の誘惑なのだ。
欺かれてはならないのだ。
素直に、謙遜に己を見つめて自分自身の心の最も深いところにある
生命の希求に従わねばならぬのだ。
自分自身を愛してくれている人の呼びかけと、その苦しみに眼を向けなければならないのだ。
自分が生きていることを素直に感謝する理由は数え切れないほどに沢山あるのだ。
人間には、「死と蘇り」があるのだ。
「尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできないのだ」。