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「『生きる意味がない』 虚無という怖ろしい罠」

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 太宰や芥川など日本文学史上に輝かしい名を残した多くの作家が
その命を自らの手で断ったことは周知のことである。
 
 何故、天才という名を欲しいままにし、地位も名誉もお金も有名性も、
即ちこの世の人々がそれを得ることこそが自分の存在に意味を与え、
幸福になることだと信じて疑わない条件をすべて満たした彼らが
そのような道を選ばねばならなかったのか。
 
 それを解明しようとする研究は今も絶えない。
彼らは実は精神を病んでいたのだ、狂気だ、絶望だと、研究者は色々な説を立てているようだが、
しかしどのような説にもそれぞれの説得力があるものの、
これ以外にない決定的な原因と言えるものを特定することはできないようである。
 
 そう、しかし冷静に考えるなら、人を自死に至らしめる決定的な原因など
初めからあり得ないことは当然のことである。
自死という極限の決断は、その人その人の人生のすべてを持って為されたのだから。
何があったから、何がなかったから自殺を決断したというような、
二×二は四だというような明快さは望むべくもないだろう。
その決断は一つの原因ではなく、
一個の人間のそれまでの人生のすべてをもって為されたとしか言いようがないだろう。
 
 ただ、原因は兎も角として、彼らが自分自身を苛んで、
悶え苦しむ虚しい日々をこれから先も永遠に続けていかねばならないのかと考え、
そんな人生に意味はあるのかと自らに問うていたのではないかとは言えるかも知れない。

日々の身を焼き焦がす「苦しみ」と「自分の存在の意味」とを天秤にかけて、
これ以上生き続けることはこの苦しみに値しない、
明日からもまたこの虚しい苦しみに襲われ続けなければならないのなら、
死んだ方がましだという思いに至って、
その結果として自らを殺すことを選んだのだろうとは言えるかもしれない。

直接の具体的な原因というものは余人に分かる筈もないし、
自分自身でも分かっていたのかどうか疑わしいものだが、
そこに屈辱と被害感とが齎す「すべては虚しい」という「虚無」が潜んでいたことは
確かではないかと、僕には思えるのだ。

つまり、自分自身の存在にもその人生にも今の苦しみに値するほどの『意味はない』という判断である。
  
  
 僕は、もう高齢者と呼ばれる歳になった。それはこんなに長くとも言えるだろうし、
たかがそれだけとも言える居心地の悪い年齢だが、
兎角この歳になるまでに甚だ多くの身近な人が自らの命を自らの手で断ち切って、
もう二度と顔を見ることもできないという残酷極まりない現実を僕に強要して来た。
男女を問わず、七八十歳代の人もいれば、五十代、二十代、三十代の人もいる。
 
 極めて身近な者もいれば、少し離れた間柄の人もいるが、
そうやって自ら命を絶って逝った人は余りに多いと言わざるを得ない。
もちろん数の多少は問題の核心ではないが、
僕の六十五年の人生に於いて十指に余るほどの自死に向きあわされるというのは、
あまりに辛く悲しく、遣り切れず、如何に言葉を重ねてみても
その思いを表現することなどとても叶わぬ苦しみである。
 
 その現実に向き合わされる度に、

「何故なのだ」

「馬鹿野郎」

と、溶岩のような怒りが突き上げて来て、心も身体も頭も膨ち切れるかと思われるほどに
熱く滾って、その不条理に、僕の方が死にたくなるほどに苦しめられてきた。
 
 確かに彼らは皆、淋しく、辛く、苦しくて叶わずに、
何の望みも企ても願いも希望も自分自身の裡に見出すことができなくなって、

「自分自身の存在には何の価値も意味もない」

という思いに囚われて、自分自身の苦しみ以外には何も見えなくなっていたのだろうし、

「醜悪な自分は生きることが許されないのだ」

と、自分自身を裁いていたのかも知れないし、愛しくて叶わぬ恋人や息子や兄弟を失って、
自分にはもう何一つ生きる意味は残されていないのだとの思いに自分自身を押しこめて、
頑なにその心の扉を閉ざしてしまっていたのだろう。

或いはまた、自分自身をこの苦しみに追い込んだ者たちに

「僕が死んだら、お前たちは自分のしたことがどれほど悪かったのかを思い知るだろう。
とことん苦しむがいい」

という残酷な復讐を果そうとしたのかも知れない。
 
 そうやって自らを殺した彼らの眼には自分自身の屈辱と被害感と自己憐憫と苦しみ以外には
何も見えなかったのだろう。
美しさも尊さも、誠実さも謙虚さも素直さも、夢も希望も理想も、憐れみも感謝も畏れも、
そして愛も、見えはしないのだろう。

自分を求める誰からの呼び掛けも聞こえはしなかったのだろう。
自分自身の存在は虚しく無意味だとの思いに閉じ籠って囚われて、
頑なに「報われない己」にしがみついていたのだろう。
虚無は僕たちの肉を切り、臓腑を抉り、骨までをも蝕む。
 
 彼らは苦しかったに違いない。
淋しく悲しく辛く、孤独の裡に底の見えぬ絶望の淵に立たせられて、
身を焼かれる思いに身悶えしていたに違いない。

「それはよく分かる」

と言うと、彼らは

「お前らにこの苦しみが分かってたまるか。私の苦しみはそんなに軽いものではないのだ」

と、腹を立てるだろうが、
 しかし、彼らがどんなに身を焼き身悶えして苦しんでいたのだとしても、
僕は彼らの決断に限りない怒りを覚える。あなたの決断、それは

「傲慢の極みだろう」と、

「何を自惚れているのか」と、

「自分をどれほど重要だと錯覚しているのか」と、

「畏れを知れ。横着者」と。
 
 
 彼らの死に向き合うことを強要された僕は、
(僕自身の過去の心理的変遷をまったく顧みることなく)、怒り、罵り、憎み、怨み、嘆いた。
情けなくて、悲しくて、泣くだけだった。

「こんな馬鹿なことがあっていい筈がない」

と、圧倒的な怒りが突き上がって来て、僕を震わせた。許し難かった。
僕の手で殺してやりたかった。
  
 何故なら僕は、君を、お前を、貴方を、その存在を、
僕は認めて、求めて、信頼して、願っていたのだ。
僕はあなたが生きる意味を自分のものとするに十分なものを得させることができなかったし、
僕の願い求める思いなど、あなたにとっては
自らの命をこの世に繋ぎ留めるに値する意味も価値も齎すことができなかったということなのだろうが、
しかし、あなたが自ら命を絶ったという現実に向き合うことを強要されて残された僕は、
苦しめられている。
 
 僕は自ら逝ってしまった一人一人が恨めしくて叶わなかった。
怒りが僕の心も肉体も貫いて、震えてかなわなかった。
しかもその苦しみは一週間や十日で消えて無くなってしまうことはなく、
何年も何年も、何十年経っても僕を襲って来て、暗澹たる思いに僕を浸らせるのだった。

「こんな理不尽なことがあっていい筈がないだろう」

それなりの経験を重ねて来たこの歳になってもまだ、僕は未だにこんな震えの中に居る。
横着者。傲慢の極み。
 
 
 だが、本当に悲しく、怖ろしいことに、僕の心を襲って脅かすのは、
過去に自ら命を絶ったそれらの身近な人たちだけではない。
 
 雪の降りつもる川に身を漬けた、睡眠薬を多量に呑んだ、手首を繰り返し切った、
電気を心臓に流した、ドアノブに紐を掛けて首を吊った・・・でも、死ぬことができなかった。
早く死にたい、お迎えが来てほしい、自分の人生には何の価値も意味もない、
私は誰にとっても要らぬ存在だ、誰も分かってくれない、自分は許されない存在なのだ、
死んでしまえば良い、私はもっと輝くべき筈だった・・・そんな悲痛な告白を僕にする人が、今もいる。
 
 自分自身の不幸な宿命に心を頑なにして、氷の部屋に自分自身を閉じ込めて、
涙にくれて、苦しんで、

「死にたい」

「死ぬべきだ」

と、心に血を流している人が居る。淋しい、分かってもらえない。
認めてほしい、分かってほしい、死ぬほど愛してほしいと心の底から願い求めているというのに、
自分自身を大切にしたいと思っているというのに、誰も本当には抱きしめてくれず、
認めてくれず、自分の存在には何の価値も意味もないのだと、
報われない屈辱と被害感に囚われて自身を裁かずにはいられない人がいる。
私はこんなに苦しんでいるのに、誰も分かってはくれないのだと、
拗ねて僻んで涙に暮れている人が居る。
 
 そして、そのように嘆き悲しんでいる人たちには、その故に、苦しんでいる親が居る。
子供が居る。そうやって娘を失ってしまった親がいる。息子をなくした親がいる。
父をなくした子供がいる。兄弟がいる。友がいる。
その故に目も心も破れてしまって血を流している人がいる。
己のすべてを懸けて呼びかけ、願い求めている故に苦しんでいる人が居る。
己に充ちて、自分自身の不幸な宿命に囚われて拗ねて僻んでいる彼らには決して見えないであろうが、
彼らに向かって必死に呼びかける他者が居る。
 
 
 「自由と独立と己とに充ちた現代」を生きる僕たちを虚無が覆っている。
僕たちの自尊心をくすぐって、そして、僕たちの人生には尊いことも美しいことも
何も有りはしないのだ、すべては虚しいのだという誘惑の囁きに僕たちは欺かれて、
自分自身以外には何も見えなくなっている。
 
 
 人は自分自身の存在に意味を求める。生きる意味を求める。
そしてその意味を確立しようと、自己実現を図る。
いい学校に入ること、いい会社に入って地位と収入を得ること、職人になること、
社長になること、恋人を得ること、結婚すること、お金持ちになること、
光り輝く芸能人やスポーツ選手になること・・・、何でも構わないが、
僕たちは自分の存在を意味あるものにしたいと望む。

世間に、他者に認められて承認されること、そうなることが自分の存在に意味を与え、
幸福になることだと信じて疑わない。
世に認められること、他者に求められ称賛されることが
「人生の意味」なのだと信じて疑わずに求めるのだ。
それが叶わなければ、自分自身の存在にも人生にも意味はないのだと。
 
 しかし、明晰に考えるなら、その自己実現の願望とは実は、
この世の価値基準をそのまま映しているだけだということが分かるだろう。
世で価値あると認められていることを実現すること、他者に認められ称賛されること、
輝くこと、それが自分の「存在の意味だ。価値なのだ」と信じて疑わずに
僕たちは必死にそれを求めるが、しかし、そんな自己実現の願望が叶えられる筈はないのだ。

己を知らない自惚れ屋は別として、少しでも自分自身を内省することのできる者は、
この世の何を手に入れたのだとしても、それがどんなに輝いて見えるのだとしても、
この世の価値は決して自分の存在に「意味」を齎してくれないことを理解するだろう。

自己実現の願望は必ず絶望に至るしかないことを理解するだろう。
それらの価値は相対的であって、「意味」とは全く異なった次元にあるものだからだ。
自己実現の願望は必ず、「絶望」に至る。
人間存在の「意味」は、己を実現することによって得られるものでは決してないのだ。
 
 人生の意味は、向こう側から賦与されるものなのである。
己に囚われている限り、本当のことは何も見えはしない。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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