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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(一)」

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

 
 僕のすべてを分かってほしい。理解してほしい。
 
 このあるがままの私を死ぬほど抱きしめて欲しい。
 
 あなたのすべてをこめて、この僕を求めて欲しい。
 
 私が壊れて、私がなくなるまで、愛してほしい。
 
 私が生きるに値する「私の存在の意味」がほしい。
 

 毎日毎夜胸に突き上げて来てかなわぬこのような身を焦がす切実な願いを
誰かに向かって投げかけ訴えることは僕たちには殆どできはしない。
真っ暗で、灯火一つ見出すことのできぬ孤独の淵に追いつめられて、すべてが虚しく、
美しいものも尊いものも誠実さも理想も愛も、何ものも信じることができなくなってしまって、
もう自ら死ぬしかないと決意してさえも、僕たちはこのような思いを口に出して
人に訴えることは殆どできはしない。
 
 どうしても守らねばならない大切なものなど何処にもありはしない、
自分の命さえも下らなく、何の意味もない虚しいものだ。
私の生きることはこんな過酷な苦しみに値しないという絶望の淵にまで追い込まれているのだから、
どんなに恥ずかしく愚かなことだってできる筈なのに、僕たちは誰かに向かって

「助けてくれ」

「愛してくれ」

と訴えることも縋ることも、殆どできはしない。何故、できないのか? 
 
 どのような究極の虚無の苦しみに襲われ、死ぬ意外に道はないと追い詰められているのだとしても、
いや、追い詰められているからこそ、僕たちの自尊心が「屈辱」を許さないからだ。
 
 素直に謙虚に、淋しくて苦しくて叶わない自分を認めて、
ひとの前にありのままの自分を委ねれば良いのだが、
認めてもらえぬという屈辱と被害感に覆われた惨めな心は頑なで、
己を離れることができない。

報われない己はひとからの呼びかけを拒んで、
真っ暗で何も見えない凍りついた部屋に自分自身を閉じ込めて、耳を塞いで蹲るだけだ。
どこまで掘り下げてみても、消えてはくれぬ自尊心。

「誰も分かってはくれないのだ」

「これが私の逃れることのできない宿命なのだ」

「私は許されず、私の存在には何の価値も意味もないのだ」

「下らない世の人々」

と、ひねくれ拗ねて僻んで、蹲るだけだ。
白馬にまたがった王子様すら求めることができなくなって、
頑なに絶望の思いにしがみつくだけだ。
 
 認めてほしい、求められたい、愛してほしいと、私が存在することの意味を
心の底から死を賭してまで願い求めているというのに、
それでもなお理解されない自分を裁き呪い、他者を憎み、拗ねて僻んで自分の裡に頑なに蹲るだけだ。
 
 ここに潜んでいるのは、自己憐憫とマゾイズムである。
何の価値も意味もないと自分自身を裁いて否定しつつ、同時に、被害者たる苦しみを
苦しんでいることで、自分自身の存在に真正な価値と意味を見出そうとしているのである。
『自尊心』は、自分の命を危機に晒してさえもまだなお、頑なに自分自身に拘って、
離れることができない。
 
 自分自身の存在を意味あるものにしたいという欲求は、どんなに自分自身を裁き否定し呪ってみたとしても、それは一層被害者意識と虚無を増幅させるだけのことで、消えることはない。
 
  
これは、本人が自覚していようがいまいが、現代に生きる僕たちが誰しも経験している心理である。
 
 誰も分かってはくれない、淋しい、辛い、苦しい、誰も誰も私を認めず、求めず、
褒めても愛してもくれないと、屈辱の惨めさと虚しさに襲われて、

「死ぬべきだ」

とまでは決意しなくとも、惨めさや慙愧の念に涙を流したことが一度や二度はあるだろう。
 
 親も兄弟も先生も同級生も、親族も友人も、知人も同僚も上司も、恋人も夫も妻も子供も
呑み友達もお茶仲間も、誰も誰も本当の私を認め称賛し愛してはくれない。
誰一人として分かってはくれない。
どんなに必死に求め願っても、いつもいつも私は、誰にも認めてもらえなかった。
私は劣等生だった。必要のない子だった。認められず、求められず、愛されない存在だった。
私は何の価値も意味もない許されない存在だ。
 
 親と兄弟があっても、同級の中に心を分かち合うべき友達ができても、
クラブ活動の仲間がいても、憧れの先輩に好きだと告白されて身を任せても、
社会に出て会社の同僚や上司に囲まれても、

「愛している」

と、プロポーズしてくれた恋人と同棲生活をして毎夜身体を重ねても、結婚して子供を得ても、
誰も、私を本当には愛してくれなかった。誰も分かってはくれなかった。
本当の私を心の底から抱きしめてはくれなかった。誰一人として私を満たしてはくれなかった。
 
 下らない友人、愚かな両親、エゴイストの兄弟、阿保な隣近所。軽薄な同級生、馬鹿な上司、
怠惰な同僚、繊細さなど薬にしたくともありはしない愚鈍な恋人。
愛という言葉すら知らない夫。罵る妻。

私は理解されず、傷ついて、一人ぽっちで、淋しさと哀しみに襲われて、
自分の存在の無意味さに、惨めに苦しむばかりだ。
 
  
 神なき現代にあって、僕たちはこのような思いに囚われて、
自分は理解されないという被害者意識から逃れることができないでいる。

自分を理解せず、認めない周りの人々を憎み怨み、認められない屈辱故に自分自身を裁いて呪って、
そうして苦しむことで何とか自尊心を保とうとしているというのが
僕たちの偽りのない現実だろう。居酒屋にでも行けば、そのことは瞬時に知れることだ。

誰もが、被害者意識に覆われて、理解されない屈辱をぶちまけている。
 
 自分は認められ、求められ、称賛され、輝き、すべての人から愛される筈だ。
愛されるべき存在なのだと信じて疑わないのである。
だから常に僕たちは自分は不当に扱われているという被害感と自己憐憫に囚えられて、
僻んで拗ねている。本当の自分を理解しないこの世の人々を憎み、怨み、
また、そんな不幸な宿命を背負わされた自分自身をもまた許せないでいる。
自分の存在には何の価値も意味もないのだと。
 
 
「自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、
其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」(漱石「こころ」)
 
  
 肥大化した自尊心を持った僕たちは自分の存在に意味を求めて、自分の願望の実現を図る。
自分は認められ求められ称賛され輝き、そして愛されたい、愛されるべきだと信じて疑わない。
しかしどんなに願おうが、どんなに努力を重ねようが、自己実現の願望は決して叶わない。
決して報われはしない。そしてその屈辱が被害者意識と虚無感で僕たちを覆う。
絶望の底しれぬ谷に僕たちを突き落とす。
 
 自己実現を果たすことができない僕たちは、惨めさと孤独と憎悪と怨みと虚しさと、
自分自身以外には何ものをも信じることのできない悲しみに覆われて、
愛から最も離れた地平、つまり「精神の死」に突き落とされる。自ら入り込む。
自ら死を選びとる。
 
 誠に誠に悲しく、遣り切れない現実である。
 
 
 では、僕たちは一体どのようにしたなら、この「精神の死」「精神の不感症」を逃れて、
本当の自分自身を生きることができるのだろうか。
僕たち人間の本来の在り方を自分のものとすることができるのだろうか。
 
 僕にはそれぞれの専門的なことは分からないが、
先人たちは深く考え抜かれた言葉を僕たちに残してくれている。
それらを僕の目で見て来た限りのことを言うなら、
漱石は「則天去私」と、書いた。

鴎外は「諦念」と言った。禅は「無私」と説く。業なる我欲を放擲せよ、無になれと言う。
また、「色即是空、空即是色」と言う。

森有正は「これ以外では決してあり得なかった現実をそのまま受け容れるとき、
慰めが訪れる」と言う。

麟三は『美しい女』を描き、過剰な自意識が絶望の根源なのだと、神への信仰を指し示す。

周五郎は尊きものの為に己を押し殺して堪えることに人間存在の本当の意味があると説く。

心理学者は自分自身に距離を置いて、自己実現を諦めよと書く。

ドストエフスキーの登場人物は「すべては神さまの思し召しでさあ」と言う。

トルストイは光りあるうちに光の中を歩めと言う。

フランクルは『それでも人生にイエスと言う』と、諦めることなく僕たちに語りかける。
苦悩だけが人格を形づくると。

芭蕉は「造化に従い、造化に還れ」と書く。

これら先人が残してくれたどの言葉も、
「自由と独立と己れとに充ちた」我、自尊心こそが、僕たちが絶望し、
苦しめられねばならない根源だと言っているようである。

神、或いは自然、天という人間存在を遥かに超えた存在との関係に於いて
自分自身を見つめて、自分自身を向こう側に放擲せよと言う。
 
 しかし、それらの言葉の肝心は、自分の欲望も願いも何もかも捨てて
「無」になって悟りの旧知に至れと言うのでは決してないだろう。
そもそも「無」になることなど僕たち人間ができる筈もないことであるのだし、
すべてを捨ててしまったとしたなら、
願いも希求も理想も美しいことも尊さも誠実さも感謝も畏れも努力も喜びも、
人間を人間たらしめる悉くのものが成り立たなくなってしまうからである。

もし自らを「無」にすることが真理なのだとしたら、
それこそまさに究極の「ニヒリスト」、虚無主義者になることであるのだし、
それは何ものをも信じず、何ものをも求めず、何ものも愛さない、
生ける屍となることを意味するからである。精神の死である。

人間であることをやめることである。  
 
 だから僕たちは、己を放擲せよと言う先人たちの言葉の真に意味するところに誠実に向き合って、
己の心の最も深いところにある促しに、
まったき素直さをもって謙虚に向き合わなければならないのだ。
 
 己に充ちて、頑なに自分自身に拘ることが何を齎すのか、
また、本当の人間でありたいと切実に願い求めて来たことは虚しいのか、
私が生まれて来たことは本当に虚しいのかと、頭が痺れるまで内省しなければならない。
 
 自分の存在に意味を求めること自体が誤っているのか、
自分の存在は本当に虚しく無意味で許されないものなのか、
自分の人生は生きるに値しないものなのか、まったき素直さをもって
真面目に自分自身の心に問わなければならない。
 
 そうすることは誠に誠に難しいことで、骨を切られるほどに辛く苦しいことであるが、
しかしそうすることは、虚無に覆われて世と自分自身とを憎悪して否定することや、
自らの身体を傷つけ苛むことや、自ら死ぬことよりも遥かに増しなことに違いない。

何ものをも信じず、何ものをも否定して呪って自分の裡に閉じ籠ることより
遥かに増しなことに違いないだろう。
 
 
「苦悩だけが人格を形づくる」。
 
「人間には、死と蘇りがある」
 
「尊きもの、それなしに人は生きることも、死ぬことさえもできないのだ」
 
二十歳の頃に憶えたこの三つの言葉が思い起こされて来る。
  
 
 どんなに自分は俗悪で欲望にまみれた醜悪なエゴイストであり、誰からも愛されない
劣等生だと自分自身を裁き否定しようと、何の価値も意味もない蛆虫にもなれないカスなのだと、
屈辱と惨めさに襲われ苦しめられようと、
決して報われない宿命に自分は支配されているのだとしか思えなくとも、
どんなに過去の自分が許されない罪を犯したのだとしても、
今の自分が報われず理解されず不当な扱いに晒され、惨めで悲しく苦しくて、
何の希望も見出すことができないのだとしても、
世の人々がどんなに愚かで腐っているとしか思えなくても、生きる意味は何処にもありはしないと
自らを殺すしかないと決断しているのだとしても、
それでもなお、僕たちを苦しめてやまないこの虚無を乗り越える道は必ずある筈なのである。

「自己の存在の無意味」という究極の苦悩を乗り越える道は必ずある筈なのである。
 
 望み求めても決して応じてくれなかった他者も、生きるに値しない愚かで
醜悪な自分自身をも許して、それでも祈る道はある筈なのである。

今、この時を私が生きていること、存在していられることを感謝して喜んで、
他者からの呼び掛けに頭を下げるに十分な億万の理由がある筈なのである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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