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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(四)」

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

 
 自分の存在には何の価値も意味もない。
誠実も美しさも謙虚も尊いことも愛も何もありはしない。
私は誰にも求められず、誰にも認められず、愛されもしない。

世も、この私も醜く愚劣だ。私のこの日々襲って来る虚無の苦しみ。
私の人生なんて、どうだっていいじゃんと呟き、涙を流す。

これ以上生きることは、この苦しみに値しはしない。私は今こそ死ぬべきだ。
 
 そんな思いに囚われて、僕たちはナイフを持って手首を切る。睡眠薬を大量に飲む。
雪の降りしきる川に足を進める。電極を胸に据え付ける。

最後の最後の決断だ。悲しく、苦しい決断だ。こうする以外に、道はないのだと。
 
 
 しかし、自分をそうして裁き否定し呪って、間違いのない決断を下しているというのに、
まさにその時、自分の内に「しまった」という思いが痛烈に閃き貫いたことを、
僕たちは自分自身に隠してはいないだろうか?

「死んでしまう。厭だ!」

と怖れ慄いたことに気づかなかったふりをしていないだろうか?
 
 
 僕たちは、もうこれ以上生きていくことはできない、死ぬしかないと究極の覚悟を決めて、
自死のみが真実だとすべてをこめて決意したというのに、
手首を切りつけるナイフが動脈に達しないように、睡眠薬が多過ぎないように、
川の流れに足を取られて流されないように、電極が心臓を破らないように・・・
そのようにしている自分に気づいてはいないだろうか。

自分のすべてをこめた決断、自分を殺すという決定的な究極の決断を下しつつも、

「それでも生きたい」
「それでも愛してほしい」

と心の奥底から噴き上がって来る自らの意志の叫びに気づいてはいないのだろうか?
どのような決断をも凌駕して、

「生きたい」
「私をなくしたくない」
「私は愛されたい」

と、圧倒的に自分を貫く意志が自分の内から突き上がって来たことに本当に気づいていないのだろうか?
 
 死ぬのなら、洗面器に水を張って、そこに顔を浸して窒息死すればいいのだ。
息を止めて、死ねばいいのだ。

私は悪く醜く許されない存在で、私の存在には何の価値も意味もないので、
私は死なねばならぬと決断するなら、崖から身を投げるのでも首を吊るのでもなく、
そんな物理的な法則に自らの死を頼るのでなく、
最後の最後までこれしかない決意をもって自らを窒息死させることができる筈だ。
 
 しかし、そう、僕たちは誰一人としてそんなことはできないのだ。
どんなに死ぬべきだと覚悟を決め、究極の決断をしたとしても、
僕たちは「生きたい」のである。
肉体が抵抗しているのではない。僕たちの命の根源の意志が

「生きたい」
「死ぬのは厭だ」

と叫ぶのである。
 
 私が死んだら、親や友人が悲しむから私は生きたいと願うためではなく、
私が生きれば私はもっと輝く筈だとの欲望でもなく、
私を否定する奴らは私の死を喜ぶかもしれないという危惧でもなく、
僕たちはこの世の何の条件も価値も意味も超えて、「生きたい」のだ。
理由も根拠も、何もありはしない。

ただただ、僕たちは生きたいのである。
 
 正直に素直に、謙虚に己の心の奥底に潜んでいる本当の自分を見つめるなら、
僕たちは「生きたい」とすべてをこめて願い求めている意志に気づく筈なのだ。

僕たちは、生きたいのだ。

淋しく悲しく辛く苦しいのは、厭なのだ。傷つけられて苦しむのは、厭なのだ。

自分自身の存在がなくなることは、厭なのだ。
 
 僕たちは唯一人の例外もなく、自分自身を永遠に保ち続けたいのだ。
損ねられることも、傷つくことも、否定されることも、消されることも、厭なのだ。
 
 僕たちの心に生じる淋しさや悲しさや辛さや、苦しみという否定的な感情は、実は、

「この状況は自分自身を保つことができない危機なので、
早くそこから逃れよ、その災厄を取り除け」

という、僕たちの最も根源的な意志から発せられた警告なのである。
 
 そしてこの警告は、死ぬべきだと決した極限の危機に臨むとき、最も激しく僕たちを貫く。
 
 僕たちは、己の意識を超え出たこの生きんとする意志の促しに気づいている筈なのだ。
 
 
 この世にある草木、昆虫、動物、そして人間、すべての生命はこの意志に衝き動かされている。

「生きよ」、

或いは

「生きたい」

という意志に促されている。
しかも、その意志は僕たちに、更に高く、更に広く、更に深く生きよと促し、それを強いている。
 
 神が存在しようがしていまいが、生命はすべて唯一つの例外なく、
この意志に貫かれ、前に進むことを促されていることは、確かなことだ。
それは、生まれた生命がただ一つの例外もなく死ぬという真実と同じ真実である。
 
 僕たちの考え、僕たちの思い、僕たちの感情や判断を遥かに超えた次元にある生命の根源的意志が
僕たちを衝き動かし、生かしている。より高くより広くより深く生きよと促しているのだ。
 
 そうでないのだとしたなら、僕たち人間ばかりでなく
すべての生命体の仕組みの奇跡的な機能や調和をどう説明できるのだろう。

極めて極めて精巧に精密に整えられて、自身を生かすように働く仕組みが必要である筈がないのだ。
生命の肉体の極小の極小に至るまで、生きることの為に備えられているのだ。
 
 生命の意志は生命が生まれるのと同時に

「生きよ」、

しかも、

「より高くより広くより深く生きよ」

と生命を衝き動かし始める。
そしてその意志がより十全に果たされるために人間に『自尊心』を備えた。
 
 己を誇るためでも、自惚れ人を傷つけるためでも憎むためでも、幸福になるためでさえもなく、
増してや己の命を殺すためでもない。

自尊心は僕たちがより高く生きるという目的を果たすために備えられたのだ。
果てしなく今の自分を乗り越えて、更に高き次元に至るために備えられたのだ。
僕たちの『存在の意味』とは、その目的を果たそうとするところにのみ成り立つのである。
だから、その地平には虚無も絶望もないのである。
 
 しかし僕たちはその目的を見誤って、自己を実現すること、
この世で価値あるものと承認されることこそが自分の存在を意味づけ、
幸福になることなのだと考えてしまったのだ。
 
 何故そういう過ちを犯してしまったのか、その理由は僕には分からない。
ただ、聖書にある『創世記』の記述。
つまり「原罪」や、仏教思想で言う「業」という考えは
僕たち人間の根源的な過ちを指し示しているのだと考えるのみである。
 
 自分の存在の意味を求めて自己の実現を図ることは必ず虚無に至る。
しかし、生命の意志に促されて、果てしなく自分自身を乗り越えんとする自己超克の希求は、
虚しさを知らない光溢れる地平にある。

感謝と歓喜に充ちた愛のうちにあるのだと思えるのだ。
驕り昂ぶった僕たちの時代にあって、
僕たちは素直に正直に謙虚に自分自身の心の奥底を見つめなければならないと、思うのだ。

絶望という苦しみは、僕たちに与えられたこの上ない賜物なのである。
 

ドストエフスキーの言葉。
「尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬことさえもできないのだ」。

 水谷昭夫先生の言葉。
「人間には死と蘇りがあります。愛が、虚しくないなら、人は蘇ることができるのです」。

 トルストイの言葉。
「光あるうちに、光の中を歩め」

 フランクルの言葉。
「苦悩だけが人格を形づくる」

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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