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「夢も希望も憧れも理想すらなく」

Sorry, this article is now avairable in Japanese text only.

 熱血高校教師だった友人が

「お金がなくなったら、愛も冷える」

と、僕に話を振って来た。
現役時代に問題を抱えた生徒の家を訪問していて、
つくづくそう思ったというのである。

僕はそう主張する彼に

「お金がなくなることで愛が冷えることはない」

と、反論した。すると彼は僕が現実を知らないのだと言う。

「現実は前さんが思っているような甘いものじゃない。
何らかの問題がある生徒の家を訪ねてみると、
そのことが痛いほど分かるのだ」

彼の感じて来た現実の厳しさもその認識をも
僕は十分に理解しているつもりだったが、
しかし僕はこう答えざるを得なかった。

「いや、本当のことを言えば、お金がないから愛が冷えるのではなくて、
そこにはそもそもの初めから愛がなかったのだと思いますよ」

すると彼は驚き呆れたような顔を見せて、

「前さんの理想主義は分かるけれど、
お金のことで家庭が壊れるというのが僕らの現実なんだ」

と言って、何故お金がないとそうなるのかを説明し出した。

お金があれば、しないでよいケンカをしなくて済むのだ、優しくもなれるのだ。
お金がないことで生活の苦しさや困難さや問題が増えて、愛が冷えるのだと。

その時彼は僕に言いはしなかったが、
心の内では僕を現実を知らない甘ちゃんだと思っているのだろうと僕は思った。
だから僕は却って正直に自分の考えを彼に言おうと思った。

「『人はパンのみにて生きるに非ず。
神の口から出る言葉によって生きるのである』と言うでしょう。
このことを本当に分からないと駄目なのだと思うのです」
 
 これまでも僕は何人もの人に同じようなことを話して来たのだが
人々の反応はいつも同じだった。
人々はいつも僕を馬鹿じゃないのかと笑うのだ。

その時の彼はもちろん僕に対する軽蔑や嘲笑う言葉を口に出しはしなかったが、
僕を現実を知らない軽薄な甘ちゃんだと改めて確信したことは間違いがないだろう。

「いや、前さんの言うのが本当なのだろうけど・・・
でもそんな理想は誰にも通じはしないよ」

彼が忠告するように言って、僕たちは議論に終止符を打った
 
 確かに彼の言うことの方が僕たちの現実の有様なのだろう。

お金のないことで困難や問題が出て来るし、家庭が壊れるのだろうし、
子供もその被害をそのまま蒙るのだ。間違いはない。

お金がなければ愛は冷えるというのは僕たちの現実、真実なのだろう。
 
 しかし僕は思うのだ。それは間違いのない僕たちの現実なのだろうが、
しかしその現実は実は、そこに愛がないということをむしろ証明しているのではないだろうか。

お金がないことで夫婦が互いを憎み軽蔑して
家庭を壊し子供の精神を損ねるのだとしたら、
そこには初めから愛がなかったのである。

お金がなくなると冷えてしまう「愛」と呼ばれているものこそが問題なのである。
 
 このように言うと、誰もが更に一層「前さんは立派なんだね」と、
僕を揶揄することだろう。偉そうにと嘲るだろう。

職場でも僕は、二十も三十才も年下の部下からもよく

「理想ばっかり言ってる」

と、軽んじられて来た。

「人間なんて、結局は自分だけが可愛いのよ」

と。そう、彼女たちが言うように僕は自分の言う理想を実現などできていない。

立派でも賢くも偉くもなく、愛に満ちた人格を備えている訳ではない。
本当に愚かで軽薄で貧弱な精神の持ち主である。
人々が僕を考えの浅い馬鹿で綺麗事ばかり言っている
愚かな嘘つきだと思うことは誠に妥当な洞察である。
 
しかし、僕が正真正銘の立派な馬鹿で愚かな嘘つきなのだとしても、
僕が言うことは本当に間違っているのだろうか? 
お金がなければ愛が冷えるのだろうか? 
人は愛がなくとも、パンのみによって本当に生きることが出来るのであろうか?
 
 
 先日、現役の中学校教師の話を聞いた。

落ちこぼれ、引きこもり、不登校、いじめ、訳もなく暴れる生徒、自傷、自殺・・・
まだ十代初めの子供たちが自分自身の存在は無価値で無意味なのだと、
もがき苦しんでいるのだと。

成績が悪い、親に愛されない、級友に認められない、先生に否定される、
クラブ活動で必要と思われない、美しくない、スポーツもできない、
人気者になれない、好きな子に否定される、傷つけられる、何の取り得もない・・・。
 
 可哀想な子供たち。

自分の存在には何の価値も意味もないのだと
自分自身を否定せざるを得ない子どもたち。

これらの少年少女たちは、誰からも承認されない劣等な自分を呪って、
その苦しみからどのように逃れるべきなのかも分からずに、頑なに心を閉ざす。

彼らには自分を本当に導いてくれる何の光も見えないからだ。

人間にとって何が本当に大切なのか、何が人を本当に生かすのか、
そのことを誰も教えはしなかったからだ。

その彼らが求めるのは、ただただ「承認されること」「自己を実現すること」だけである。
 
 しかし彼らが信じて求めているその「承認」とは、
実は相対的なこの世の価値基準に基づく評価に過ぎないのだ。

ひとに認められ求められ愛され輝くこと、それは「パン」なのだ。

もちろんパンは確かに必要である。
それなしに僕たちは生きて行くことはできない。
自尊心は他者に承認されることで支えられるからだ。

しかしそれだけを求めることは僕たちを虚無と絶望に導くだけなのである。

人が人として本当に生きるためには「神の言葉」が必要なのだ。

 神と聞くと、すべての人は顔を歪めて、
馬鹿々々しい、そんなものは聞きたくもないと言う。
愚かなことだと拒む。

よし、それならば、僕たちを生かす「生命の意志」と言おう。
「理想」、或いは「愛」と言おう。

 自分には何の価値も意味もないと苦しむ子供たち、若者たち、大人たち。
夢も希望も憧れも理想さえもないと頑なに閉じ籠る僕たち。
何ものをも信じることが出来なくなってしまった子供たち。

そこに欠けているのは、今の自分自身を乗り越えて、
より高い自分に至ることこそ僕たちの存在の目的であり意味なのだという、
「生命の意志」が示してくれている「愛」なのではないだろうか。

相対的な世の基準に照らしてすべてを評価することにこそ、
問題があるのではないかと思えるのだ。
 
 子供たちは、

「お前は優秀で可愛い良い子なのだよ。お前は輝くんだ。これはお前の人生なのだから、
お前が望むように好きなように生きて行くのが一番良いのだよ。
自分の夢を実現するんだよ」

子供たちはそう言われて育ったのかも知れないし、或いは、

「お前は駄目な子だ。私たちの願い求めるような子ではなかったのだ。
お前は美しくも可愛くも優秀でもない子だ」

と、否定され続けて辛うじて命を保って来たのかも知れないし、
それともまた、

「お前が生まれて来たせいで私はこんな不幸を背負わされて来たのだ、厄病神」

と、足蹴にされて来たのかのかも知れない。
 
 子供でも若者でも、自分自身を正しく愛することが出来ずに自分自身を否定して
虚無の裡に閉じ籠らざるを得なくなったのには様々な理由があるだろう。

それは親や好きな人や友人たちにお金がなかったからなのかも知れないし、
地位や名誉や有名性や性の満足がなかったからなのかも知れないし、
或いはまた有ったからなのかも知れない。

しかし最も明らかことは、
素直で謙虚な「愛」が人を本当に生かすのだという思いが欠けているということだ。

理想がないということだ。
 
 子供たちも若者も大人も、すべての人間は
自分の存在と人生に意味を求めて承認されることを願う。
認められ求められ愛されることを求める。

そしてより自分が高くあることを求め願う。

この欲求は僕たちありとあらゆる生命を生かして
更なる高みに至れと促す「生命の意志」だからだ。
 
 ところが、人々が頑固に信じるのは
他者からの承認だけなのである。
自己を実現することだけなのである。

それだけが自分の存在に価値と意味を齎すものだし、
幸せということなのだと信じて疑おうともしないのだ。
 
 だから僕たちは何ものをも信じない。
何ものにも感謝せず、畏れない。
夢も希望も憧れも、理想さえも信じない。

そして愛も。
 
 誰もが本当の自分を分かって貰えないと僻んで拗ねて、
被害者意識の内に蹲っている。

他者を軽蔑し憎み、自分自身さえ否定して呪い、
そして報われない自分を憐れんで閉じ籠る。

虚無の苦しみ、それは実は、己に充ちた僕たちの愛の欠如なのではないのだろうか?
謙遜さの欠如なのではないのだろうか?

僕たちは素直に謙虚に、己を正しく見つめねばならない。
僕たち人間の存在と人生の本当の意味について誠実に考えねばならない。

何が人を本当に生かすのか。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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