虚無の時代
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もう50年も前のこと、僕がまだ二十歳だった頃に
アメリカで起きた衝撃的な事件を新聞で読んだ。
或る若者が通学途上の小学生たちの列にライフルを打ちまくって
何人もの子どもたちを殺し傷つけたという事件である。
事件後すぐに取り押さえられた犯人はその動機を尋ねられて、
「月曜日は憂鬱だから」と答えたと記事には書かれていた。
それは、それまでに聞いたこともない信じ難い事件で、
僕はあまりの恐ろしさに身を震わせたが、同時に、
こういう事件が今後アメリカなど先進国と言われる国々で増え続けて行くのだろうし、
日本もまた例外ではないと思った。
そして誠に残念なことに、それから10年後の日本でもこのような対象者を特定しない
「無差別殺人」が頻繁に起きるようになって、それは今現在も絶えることがない。
犯罪心理学や社会学を学んだ訳でもない若い僕が何故その時そのように思ったのか?
それは恐らく僕がドストエフスキーの小説に読み耽っていたからだろうと思われる。
ドストエフスキーが描くラスコーリニコフやスタブロギンなど、
「何ものをも信じない、心が凍りついた虚無主義者」の至る必然の結末が
このような「無差別殺人」なのだと考えたのだった。
では、「虚無主義」とは何なのか?
それは美しいものも尊いものも、また善も悪も醜さも、
人間社会の一切の価値や意味を認めない精神である。
僕たち人間は社会を作ってその中で生きているので、
幼少の頃からずっと「社会的な価値基準」を身につけるように教育される。
その基準の根源は「命を尊ぶこと」である。
社会の成員一人一人が十全に生きていくことを守る為にその価値基準はある。
僕たちはそれを身に付けることで、
自分自身の生存と同時に他者の生存をも守るように躾けられているのだ。
だから僕たちの欲望や願望には、奪ってはならない、
傷つけてはならない、殺してはならないという高い壁が築かれているのみならず、
また、自分自身と同じように他者に敬意を大切にして、
親切に丁寧に優しく振る舞わねばならない、
それが美しく尊いことなのだという道徳律も備えられているのだ。
ところが「虚無」に囚われた者はこの規律と道徳律の壁を容易に乗り越えてしまう。
彼には善も悪も美も醜も、また義務も責任もありはしない。
あるのはただ神のように高くなってしまった「過剰な自己愛」と、
それ故に齎された被害感だけである。
だから僕たちには彼らの動機を理解することができないのだ。
「世間を騒がせたかった」とか、
「月曜日は憂鬱だから」とか、
カミュの『異邦人』の主人公のように「太陽が眩しかったから」とか、
そのような動機で無関係の人を傷つけたり殺してしまう心理が分からないのだ。
だが本当に恐ろしいのは、
無差別殺人という事件を引き起こす虚無主義が、そんな極端な行動に至らないまでも、
現代の僕たちの心を無自覚のうちに覆っているということだ。
無差別殺人のみならず、鬱病や自傷やDVや幼児虐待や虐めや自殺など、
現代に入って急増している事件や事象はこのことと同じ根を持っているように
僕には思われる。恐るべき虚無の時代に僕たちは生きているのだと。