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挨拶

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毎週火曜と木曜はゴミ出しの日である。
家から集積場所までは百メートルばかりの短い距離なのだが、
八時までにという制限があるので、普段会うことのない
町内の人とも顔を合わせることになる。
僕たちが今の町内に越して来たのは四十年前のことで、
その当時の世帯数は四十軒に満たなかったのだが、
新たな家が次々と増え続けて今や百数十軒にも膨れ上がった。
通りで顔を合わせても、お互いに名前も顔も分からないという状態で、
まるで都会の住宅地のような具合である。
 
 今朝も燃えるゴミと資源ごみの袋を下げて、瓶や缶などの分別でモタモタしていると、背後から
「おはようございます」
と、小さな子ども特有の甲高い声が聞こえて来た。
意外に思って振り返ると、通りの反対側の最近新しく建てられた家の玄関に
若い夫婦と男の子二人が立って、微笑んでいる。
上の子は四歳くらい、小さな子はまだ二歳くらいだろう。
声の主はどうやら上の子らしかった。
振り返った僕は、
「おはようございます。僕は偉いね。ご挨拶を有難うね」
と、頭を下げた。すると彼は満面の笑みを浮かべて、また
「おはようございます」
と、一際大きな声で言うのだった。そして、母親が小さな子に
「〇〇くんは?」
と、促すと、まだ口が儘ならない子は、笑顔を見せ手を振って僕の方に歩いてくるのだ。
何と立派に教えていることか、僕は若い両親の誠実な心に胸を熱くせずにはいられなかった。
 
 だがこのように書くと皆さんは仰るかも知れない。
町内の者に挨拶するなどという、そんなことをわざわざ書かねばならぬのかと。
そう、それは尤もなことである。
しかし皆さんが職場や学校など毎日を過ごしている場を改めて振り返ってみてほしい。
そこはどのようだろうか?
挨拶をしない人がどれほど多いかに驚かれるのではないだろうか?
朝、周りから声を掛けられても表情も変えずに黙って机に座る部下や上司。
名を呼ばれても、「はい」とも答えない同僚。
知らないうちに帰ってしまう知人。
そんな人は僕たちが普段思っているほど少なくはないだろう。
 
 以前に小学校の教師を長年勤めた知人にそんな話をした時、その人は
「一律に考えてはいけない。しようと思ってもできない子や、
性格的にできない子もいるんです。その多様性を認めなければならない」
と教えてくれた。もちろん人にはその個人特有の止むを得ない事情があるので、
それを汲み取って対応することは大切なことである。
しかしながら、そのことで挨拶することの重要性が消えて無くなる訳ではない。
 
 おはようございます、と挨拶することは僕たちにとって取るに足りない些末なことだ。
大きな労力や金品を必要とする訳でも、大きな損得が生じる訳でも、
多大な努力が要る訳でもない、極めて些細なことに過ぎない。
しかしその些細な行為は、実は、人の心の有り様を表すことであるのと同時に、
自分自身の身を守ることでもあるのだ。
何故なら、こちらから「おはようございます」と挨拶することは、
「私はあなたを認めています」と言うことであり、
挨拶しないということは、「私はあなたを認めていない」と言っているのと同じだからである。
自分を否定する相手に敬意を払って大事にできる人は、殆ど居はしないのだ。
他者に敬意を払うこと。
自分がして欲しいことを他者(ひと)にすること、それが愛の基本なのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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