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存在の承認と意味(一)

 世界的に活躍しているというフラワーアーチストがこんなことを言っていた。

「自分で自分の作品を如何に凄いかと主張しても、
それがビジネスとして成り立たないとしたなら、それは芸術ではない。
無価値で無意味な屑に過ぎない」。
 
 確かにこの言葉は世の真実を語っている。

国会議員も市長も選挙で当選しなければ、
議員にも市長にもなることはできないし、
シェークスピアを超える作品を書いたと叫ぶ劇作家も、
それがビジネスにならなければ、
何千枚もの原稿はただの紙くずである。

そしてそれは歌手であれ俳優であれ社長であれ会社員であれ職人であれ、
同じことだ。

僕たちのすべての営みはビジネスとしてお金を稼ぎ出さなければ、
無価値で無意味なものとされて、
「自称」という軽蔑をこめた言葉が浴びせられるだけである。
 
しかし誠に悲しいかな、
このことは「職業」だけに限らず、
僕たちの人生のすべてに当て嵌まる真実だ。
 
 家庭、幼稚園、小中高校、大学、会社、地域、世間・・・
僕たちが関わることなしには決して生きて行くことができない社会に於いても
このことは揺るがすことのできない真実である。

親兄弟に認められ愛されること、
級友や先生に認められて輝くこと、
会社や世間に認められて称賛を浴びること・・・

つまり他者との関係に於いて
自分の存在が価値あるものとして承認されることが、
自分の存在を意味あるものと僕たちは判断しているのである。

だから、拒まれて承認を得ることができなければ、
僕たちは自分の存在を認めることができなくて、
自分をゴミだと裁くのである。
 
 世はアイデンティティーの確立だとか存在の証明だとか
自己実現などと難解な言葉を使ったりするが、それを図る時、
実は僕たちは自分の存在を社会的な価値基準に照らして、
そこで「承認」されるか否かということに
自分の存在の意味の根拠を求めているのである。

僕たちはそれをビジネスの成否と言いはしないが、
しかし実は、どちらも同じ基準を持って評価しているのである。
 
 だがしかし、これは本当のことなのだろうか? 

僕たちの存在の価値と意味とは、そのように量られるものなのだろうか? 

素直に真摯に自分自身の心の最深奥を見詰めて、疑ってみなければならない。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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