人生感意気 功名誰復論 一
銀座の画廊が京都で僕の個展を開いてくれることになり、そのフライヤーの裏面に解説を書いて下さった。曰く、「世の評価に影響されることなく、作者は描く」と。これは僕にとって有難い言葉だが、しかし本当のことを言えば、この言葉は過剰評価というもので、僕はむしろ恥ずかしく申し訳なくて、できることならその文章を削除してもらいたいほどである。確かに僕は世の評価の如何に拘らず己の信じる道をただひたすらに歩んでいくことを願ってはいるものの、現実の僕の信念はそれ程に強くもなく、自分を恃む思いも脆弱極まりなく貧しい限りで、日々描いている作品が田舎の自称文化人の趣味に過ぎないのだという思いに苛まれているというのが偽りないところである。
芥川は「著作、名声、そんなものが一体何になる」と絶望の淵にあって朔太郎に激昂して叫んだということだが、世での名声が絶望の淵から身を救ってくれるものではないと芥川が痛感していたことに疑いはないし、そこまで追い詰められてしまった人間にそれが生きる意味を与えてくれることはないだろうと思いはするが、しかし世から受ける名声や世が与えてくれる評価というものは、それに大小の違いがあるとしても、無視できたり影響を受けずにいられるほど人間の精神は強くもなく、立派でもないだろうと僕は考えている。神を殺してその座に座ってしまった僕たちの時代にあっては、名声や評価というものは猶のこと一層大きく深く人間を捉え、邪さへと導いていると思えてならない。
最近出された本に若者の職業に関する調査とその分析を纏めたものがあった。「どんな仕事に就きたいか」という設問に対する若者たちの答を読んでいると、金、有名性、性、の三つが浮かび上がってくるようである。私たちが生きるこの現代にあってはそれらが大多数の人間の生きる意味となり、存在を証明してくれるものと捕らえられている様なのである。世の評価から自由であることなど殆どできることではないが、しかし同時にまた、それだけに捉えられていることもまた愚かしいだろう。だが、神なき時代に生きる僕たちは否応なく人生の無意味感に対抗する手段として「世の評価」しか持ち得ないのだとも考える。何とも傲慢な時代になったものである。