朔太郎「詩人の死ぬや悲し」
昨年の暮れから萩原朔太郎全集を少しづつ読んでいる。
若い頃に読んだのとはまた異なった印象を齎してくれるのが妙でもあり新鮮でもあって、
読書の新たな愉しみを覚える。
先日も全集の第二巻を読んでいて、
かつては印象に残らなかった散文詩にぶつかった。
ある日の芥川龍之介が、
救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について私に語った。
(略)「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名聲がある。」
ふと、彼を慰めるつもりで言った私の言葉が、
不幸な友を逆に刺戟し、眞剣になって怒らせてしまった。(略)
「著作? 名聲? そんなものが何になる」
詩はこのあとニーチェの病床での言葉や
何とか艦長に代表される謂わば俗世間で成功を収めた人々が
満足の言葉を遺して死んでいったのと対比して「詩人」の死の悲しさを語っている。
まったく、人生というやつは、である。
龍之介は人間の本質を極限まで探り求めて、
今日においてもなお光り輝く金字塔を打ち立てた天才である。
朔太郎ならずとも、君には著作ばかりか名聲までもあると慰めるのは
当然と言えば当然のことである。
もちろん朔太郎もその言葉が
「死の暗黒と生の無意義」を拭い去ると確信していたのではなかったろうが、
苦悩する友に言い得る言葉はそれ以しかなかった。
絶望し、死の淵に立ち竦んでいる人間を慰めるのに、そう言う以外にはなかったのだ。
だが、と僕は考える。
だが、龍之介は慰められず、自ら死ぬことを選んだ。
何ものによっても癒されない「人生の無意義」。
明治以降、現代になってもなお僕たちを苦しめ続ける呪詛とも言うべき命題である。
一体何がこの暗くて深い虚無の穴を埋めてくれるのか。
もう六十年も生きて来たというのに、
斯く問う僕もまた朔太郎が語った以上の慰めを見出せずにいる。
まったく、人生というやつは・・・。
深夜、酒を片手に、また頁を繰る。