感謝知らず (七)
「先生が亡くなられたとの報を受けて駅に駆けつけたとき、
胸を押し潰すかのような悲しみが襲って来て、
私は人目を避けつつ柱の陰で涙を拭わざるを得なかった。
が、それと同時にどこかでふと、安堵の思いが浮かんで来るのだった」。
芥川龍之介だったのかどうかも憶えてはいないのだが、
このような意味の文章を読んだことが妙に記憶に残っている。
骨を斬られる程の悲しみの内にもこんな感情が頭を擡げてくるのだという驚きが、
四十年も経った今でも忘れることを拒んでいる。
怒りと区別がつかないほどの悲しみは暴力に満ち、破壊的で、
頭や胸ばかりでなく総身が張り裂けるほどに人を支配する。
だからそれは純一で他には何の感情も入り込む余地がないと、
僕たちはそう思って疑わない。
しかし心のどの層から発せられたものであれ、
僕たちの感情は純一でもなければ不変でもない。
日常の生活の中で僕たちは嬉しいだとか淋しいだとか苦しいだとか言って、
言った言葉通りの感情をしか自分の内に認めないものだが、
実はそんな単一の感情など、ありはしないのだ。
冷やかに一つひとつの感情を凝視めて行くと、
それが薄い被膜のようなものであると気づくが、
それを丁寧に剥いでやると、そこにはまた別の感情の皮膜が覆っていて、
更にまたその下には別の感情がという具合に、
僕たちがただ一つだと思って疑わないでいるものが
実は色とりどりの様々な感情が
複雑に重なり合って成り立っているのだと発見することになる。
先生の死を心の底から嘆き悲しむ純情に真実がないと言うのではない。
極限の悲しみの内にも、思いも寄らない感情が潜み、
更にその下には尊敬や憧憬や感謝や怒りと共に
屈辱までもが混沌として蠢いていると言うだけのことである。
僕たちの心は日常の言葉ほど単純ではないのだ。
そう言えば、漱石が『心』でこんなことを先生に語らせている。
「かつては其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、
今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。
私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思ふのです」。
先生というものは弟子を教え導く。
弟子は先生を敬う故に謙虚さを身に付け、
先生への階段を一歩でも高く上ろうと励み、
先生もまたそれを喜んで力を注ぐ。
弟子にとって先生は有難く、尊く、畏ろしい存在であり、
先生にとっての弟子もまた、有難く尊く、可愛い存在である。
このような師弟関係を昨今では誰も認めようとはしないが、
実は学校教育であれ、料理人の修行であれ、会社の勤めであれ、
人が成長していく為には本来欠かすことのできないものなのだ。
先生からの教えと導きなしに人は殆ど自分を伸張させ得ない。
僕たちは自分が思うようには明晰でも謙虚でも、
天才のような才能に溢れているのでもないからだ。
弟子の先生から受ける恩は
如何に感謝しても感謝し足りることがないと言うべきものなのだ。
とは言え、弟子が高みに上るためには
今現在の自分を否定しなければならず、
その否定の役割を担うのは、先生である。
先生は常に高いところにいて弟子を否定し、
今の自分を超えて高みに攀じ登れと強要する。
弟子を完膚なきまでに打ちのめすことのできない師は尊敬されはしないし、
導くこともできはしない。
故に、優れた先生につく優れた弟子は
永遠に先生の「膝の前に跪づ」かねばならないことになる。
教えられ導かれる以上それは必定のことではあるが、
それは同時に、先生が生きている限り
弟子は自分を否定されることの屈辱を免れることができない
と言うことも意味しているのだ。
「其人の膝の前に跪づいたといふ記憶が、
今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。」
全く何とも僕たちの心は厄介に創られているものである。