感謝知らず (二)
僕がまだ中学生の頃だった。
昭和三十年代のことで、日本はまだまだ貧しく、
「物乞い」と呼ばれる人が家々の玄関に現れるのは珍しいことではなかった。
お盆だったか正月だったか、母の里帰りで祖父の家に行っていた時に玄関で声がして、
出て行った祖母がすぐに引き返して来て、
財布を手に再びまた戻って行った姿を見たことがあった。
物乞いに幾らかのお金を渡していたのだろう。
記憶力の極めて悪い僕がそんな小さなことを何故覚えているのかというと、
物乞いが引き上げて行ったあとに祖父がこんなことを僕に語ってくれたからである。
恐らくお金を渡した後に祖母が「お礼も言わない」とでも呟いたのだろう。
「人に何かを上げた時に相手が礼を言わないからといって、腹を立ててはならない。
何かを上げるというその行為の内にこちらはもう十分の満足を得ているのだから、
それ以上の感謝を要求してはならない」。
この祖父の言葉の意味をその時の僕は理解することができなかったが、
言葉だけは今も憶えていて、
時折思い出しては、自分自身を戒めたりしている。
「感謝を要求してはならない」。
これは紳士として当然の心得と言ってしまえば、
なるほど当然のことかも知れないが、
しかしこれの実践は至難の業である。
何かを人に上げるという時に
僕たちは相手が喜ぶことや相手の役に立つことを目的としている。
そこに働いているのは基本的に相手への好意かまたは承認である。
そして一方、与えられた側がお礼を言う、感謝の意を示すということは、
あなたの思いを受け止めて喜んでいますよ、
役に立ちましたよという与えた側への好意や承認の表明である。
だから与えた相手が感謝の意を示さないとしたら、
自分の与えたものが喜びを齎さなかったか、
或いはお前のことなど気に掛けてもいないと言われているのと同じことになる。
私はあなたのことを好きでもないし認めてもいない、
そう主張しているとも考えられるのだ。
だから要求するのではないとしても、
相手が感謝の意を表さないことはかなり身に堪えるのだ。
そんな大袈裟なと思われるかもしれないが、
これは決して小さな問題ではない。
感謝の意を示さないことは、与える側に不信と屈辱を、
つまり「存在の無意味感」を押し付けることになるのである。
感謝を要求しないことが困難な理由はここにあるのだし、
それ故にこそそれが尊いことだと言われる所以でもあるのだ。
僕たちの日常にはお礼を言わない、感謝を示さない、
挨拶をしないことなど河原の石ころほどに転がっているので、
人々はブツブツ呟きながらも一々それらのことに心を働かせはしないが、
実はこれらの呟きの意味するところは決して些細なものではなく、
むしろ人はそれを巡って生きているのだ。
しかし祖父の語りたかったのは、
そんな心理上の理屈ではなかったろうとは思われる。
誇り高い祖父はただ恩着せがましい偽善を嫌い、
「寛容で高潔な人間になるのだぞ」
と、僕に願ってくれていたのだろう。
「人に感謝を要求するような卑小な人間になってはならない」と。
小さな僕を膝の上に乗せて、
頬擦りをしてきた祖父の笑顔が思い出される。
鼻下にたくわえた髭が痛かったものだ。