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挨拶(一)

 二三年前のことだ。新たに導入される人事評価制度についての研修を受けた。
テーマは部下の働きをどう客観的に評価するかということだったが、
研修の目指すところは職員の資質の向上である。
講師はこう言う。新しい人事評価制度を十分に活用して目標を設定し、
部下を褒め助言を与え、時に助言を与えるなら、モチベーションが高まり、
増員などしなくても業績を上げることができる。
なるほど、講師の説くところに異議はない。
職員が業務遂行上求められている行動を身に付けるのだとしたら、
業績がうなぎ上りに上昇するのは疑いない。
 

 しかし僕にはそんな絵に描いた餅のような話を信じることができなかった。
そんなことで人間が変われるものなら、この社会は今頃善良な人に満ち溢れて、
バラ色に染まっているはずだ。腹立たしいくらいだった。
僕は手を挙げて、人間はそんなに簡単なものではないのではないかと質問した。
すると講師は、得たりとばかりに笑みを浮かべて、

 「あなたの言うのは、人格の変化だ。ところが私の言っているのは、社会的行動なのだ」

と、余裕すら見せて答えるのだった。
講師は、職場において人格を変貌させることは殆ど不可能だが、
社会的な行動を変化させることは容易だと言うのである。
社会的行動は心を反映するものではないので、
目標を設定して、それの実現を目指した努力と成果を客観的に評価するなら、
人は然るべき行動を取るようになる。
その第一歩が挨拶なのだが、人は人に敬意を持っていなくても、
謙虚さに欠けているとしても、適格な評価と指導を与えることによって、
社会的行動として挨拶し、頭を下げるのだし、
それができるようになれば、職場の環境は改善され、
職員の力は自ずと倍加すると結論付けるのだった。
そこには人格は要求されていないと言うのである。


 僕はこの論理の前に白旗を上げるしかなかった。
反論の言葉は何も浮かばず、むしろ北朝鮮のマスゲームが思い出される位だった。
数万人の一糸乱れぬ行動。なるほど、そこに人格が反映されているはずはない。


 そう言えば、ファストフード店やデパートなどでは
毎朝全ての職員を整列させて客への応対の訓練をしているようである。
朝の通勤時間に、ガソリンスタンドの職員が一列に並んで
頭を深々と下げている姿を見かけることがある。
確かに、これらの店の店員さんは笑顔を持って客を迎えてくれる。
講師の説は、間違っていない。


 しかし接客を生業とするどの店も
そのような訓練を絶えず職員に課しているということは、
命令がなかったなら人は挨拶をはじめとする
然るべき社会的行動を取らないということを示していることにもなる。

人に会って、「おはようございます」と言い、
帰るときには「さようなら」と言うこと。
悪かったら謝り、人を許し、怒鳴りつけないこと。
目標に向かって誠実に努力すること。
このような人として基本的な行動を取ることが、
訓練されなければできないほどに難しいことなのだろうかと、僕には思われる。

しかし、そう、僕たちの現実は、「難しい」と教えてくれる。
学校でも会社でも地域でも、それが義務として厳しく課せられない限り、
人は自ら進んで挨拶しようとはしないし、
思いやりを持って人に接しようとも、許そうともしない。
小学生から老人に至るまで、人は他者に敬意を払わない。
他者を尊重しない。

人は功利的な社会的行動を強制されればそれを身に付けはするが、
自ら進んで他者を認め敬意を払う精神の高潔さを自らに課そうとはしない。
『自己愛過剰社会』という本があったが、
現代は自分自身以外には誰をも認めたり、
敬意を払ったりすることができない社会になってしまったのかもしれない。

驕り昂ぶった自我の時代。

  「税金を払っているのだ。
   この上に、何だって俺が人を愛さなければならないというのだ」。

ドストエフスキーの描いた主人公の台詞が思い出される。

僕たちは上からの一切の義務を拒む。
神であろうと人であろうと、
自分より上のものは何ものをも認めようとはしないのだ。
僕たちは自由で平等で独立した存在なのだという訳である。

だから僕たちは人を自分自身を愛するように愛する義務も、
人を許す義務も、人を尊重する義務も、謙虚である義務も、すべての義務を拒絶する。
僕たちに残されているのは、
損得勘定だけを価値とする功利主義だけになってしまったのかも知れない。

内省

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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