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退職(一)

 今日、退職の辞令を貰った。


 四十歳を過ぎた頃から、僕もいづれ定年退職の日を迎えると、
指折り数えてその自由を夢見てきたのだが、
可笑しなことに、この日が本当に来るとは思っていなかった。
ちょうどそれは「死」を思うのと同じようだ。
命あるものは皆死ぬし、自分もまたその例外ではあり得ないと確実に知っているというのに、
死がいつも他人事で自分の死を切実に感じることがないという
その理不尽な心理と同じだ。
だが現実には、今日、その日は他人事ではなく僕の上にやって来た。
勤続四十二年という同僚たちと一緒に僕もまた
「お疲れさまでした。有難う」
との言葉とともに、市長さんから辞令を貰った。


 その辞令を手に関係のあった部署を最後の挨拶をして回った。
こちらも向こうも
「お世話になりました」
「お疲れさまでした」
という決まり切った言葉を交わして、頭を下げ合った。
普段碌に挨拶も返さない職員までもが
今日ばかりは椅子から立ち上がって神妙な顔つきで頭を下げてくれた。
ああ、終わりなのだなとの思いが現実感を伴って来た。
挨拶に行くべきところをすべて回り終えて正面の玄関を出ようとしたとき、
今までに覚えたことのない感情が胸にこみ上がって来た。
具体的な人や事柄が思い出されたのではなかったが、
この老朽化の感の否めない役所で三十年近く働いて来たのだと、
そんな思いが頭をかすめて、不覚にも目頭が熱くなった。
どうにかして今日にも辞められぬものかと、
あんなに厭って来た庁舎が霞んで見えた。
語るべき程の業績を残したのでも何かの貢献を為したのでもないが、
一つの仕事を終えたとでもいうような思いが胃の底を重く圧して来た。


 見上げると、春の霞んだ青空が高く広がって、目に痛かった。
今はもう亡くなってしまった、
とてもお返しできない恩を与えて下さった方々の
微笑んだ顔が一人々々思い出されて、胸が疼いた。

「走馬灯のように」

と、市長さんの餞けのお話にあったが、
思い出そうと意識してはいないのに、
多くの人の顔が浮かんでは消え、消えては浮かんできた。


 感傷的であることを逃れることはできないが、
思いを辿れば、本当に数え切れないほど沢山の方々が
気儘放題に振る舞う僕を助けて下さった。
生半可に過ぎない僕の熱に真剣に応え、尽力して下さった。
人は人に支えられて生きているのだと、
普段から偉そうな顔をして話したりしているが、
今日ばかりはその言葉が重く胸にのしかかって、
立っていることも危ぶまれる程だった。
本当に、多くの人の温かな親切のお陰で僕は生きて来ることができたのだ。
いかな僕も

「生まれて、済みません」

といういつものフレーズを心の中でさえ言うことができなかった。


 どうやら今日のこの春の日の午後が、
僕の人生における最も善き日であることは疑えないようだ。
特別優秀でもなく、
辞表をいつも胸のポケットに隠し持って
張ったりだけで何とか擦り抜けて来たとはいえ、
二十八年間というもの、図書館の勤務を中心に
僕の人生の多大な時間を注いで来たことも紛れもない事実なのだから。
仕事を終えた人生の善き日。
浅くも深くも、これまでに関係のあった一人々々の前に
赤ん坊のような素直さで感謝を述べたいという
抜き差しならぬ思いが突き上がって来て止まなかった。


 こんな表現こそ他人事のようだが、
この命を与えられたこと、多くの人に助けられて
この職業人生を今日まで生き得たこと、
それを人に感謝できることは、
この世のあらゆる価値の何にも増して幸せなことだと、
誠に恥ずかしいことだが、僕は今日初めて知った。
軽蔑も憎しみも怨みも怒りも失望も屈辱も、
常日頃決して僕の胸から拭われることのない否定的思いが消え去って、
感謝だけに満たされることが何ものにも代えがたい幸いなのだと、
思い知らされた。

死ぬ日は、生まれた日に勝る。


 しかしこの達成感と感謝と解放感に満ちた幸福は、
恐らく半月ほどの内に僕の胸を去るだろう。
果たすべき仕事と座るべき椅子のない日々は早晩僕を苦しめ始めるだろう。
感謝に代わって存在の無意味感が冬の嵐のように襲って来て、
僕の人生の最も辛く苦しい時が始まるだろう。

何とも、遣り切れないことだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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