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新型うつ

 神経科に通いだした彼は夜も眠れない。
食欲もなく、憂鬱で、寂しくて、息苦しいと訴える。

職場のみんなは僕を理解してくれないし、意地悪だ。
一生懸命働いているのに誰も認めてくれない。
今の職場に僕は向いていないんですと、彼は続ける。

「本当の俺はこんなものじゃない」。

医者はストレスだと言うらしい。
暫く仕事を離れて、薬をきちんと飲めば治りますと。


 このように訴える若い男性や女性の話を僕は沢山聞いてきた。
さぞや大変だろうと、僕は僕の持っている知識や考えを精一杯話したり、
相応しい本を薦めたりして何とか力になろうと努めてきた。


 心理学の知識が乏しいこともあるのだろうが、
彼らの話を何度聞いてみても僕にはそれが病気だとは思えなかった。
人間としてこうありたいという願いを持つ人間なら
誰もがぶつかる人生の苦悩、
漱石やヘッセやジイドなど多くの近代の小説家が書いてきたように、
人生の苦難と挫折に思い悩んでいるのだと思ってきた。
 

 高い理想と誇りを持つ故に重い義務と責任を背に担ぎこんだ彼らは、
学生から社会人となって初めて味わう現実の愚かさや醜さの中で
自分自身を実現することも確かめることもできなくて
無力感や無意味感に襲われているのだと、
僕はそう考えて彼らに接してきた。

誠実であること、親切で礼儀正しく、
愛に溢れた人間であることを無意識にであれ、自らに課していたり、
或いは果たすべき夢を夢見ていたので、
それらがまったく通用しない現実が
苦しくてかなわないのだと信じて疑わなかった。

「誰からも認めらず、求められず、輝いてもいない。
 僕は何の価値もない人間だ」

と日々感じること、
その孤独、寂寥、その無意味感は
骨を切られるように堪えるだろうと僕は思って、
苦悩する彼らの姿を美しいとさえ感じていた。


 だから僕はいつも彼らを褒めた。
君は親切で誠実で愛情深い人だ。
清らかな心の持ち主だ。
君の苦しみが何よりそれを証明しているではないか。

職場の人たちは分かってくれなくても、僕は理解している。
君は優秀で大切で貴重なかけがえのない存在なんだ。
俺は駄目だ、自信がないと君は言うが、
自信を持つことができるのは愚か者だけだ。

むしろ自信を持たない人を賢いと言うのだ。
君は清らかな心を持っているからこそ人との間に距離ができてしまって、
誠実だからこそ自分を責めて被害感に捕らわれてしまっているんだ。

だから人にどう思われるかでなく、
自分の理想に対してどうあるべきかだけを問えばいい。
僕はこんな人間になりたいと、それだけを自分自身に問うべきなんだ。

人々は利己的で、しかも百人百様だから、
その人たちに良く思われようとすると必ず裏切られて絶望してしまう。
大切なのは自分の理想に忠実であろうとすることだけだ。

今日できなかったら、明日、
明日できなかったら明後日、
そうやってこつこつと一生をかけて歩んでいけば良い。
必ず、分かってもらえるからと、僕は何度も何度も話した。

焦らずに、目の前の仕事を一つ一つ、
初めて自転車に乗る練習をしたように果たして行って、
自分の感じたことや考えたことを論文を書くように毎日書いて、本を読むと良い。

何より大切なことは、自分が何を求め、何を思い、
何を考え、何を果たそうとしているかを認識することだ。

そうして行くと、必ず強くて豊かで優しい立派な人格が形成されていくはずだ。
苦悩だけが人格を形成するとフランクルは言い、
森有正は、変貌はその営みの中にのみ訪れると書いている。

僕はそう話し続けてきた。
何度も何度も粘り強く理解を示し、励ましてきた。


 しかし何度話してみても彼らは次に会ったときもまた、
眠れない、自信がない、みんな意地悪で、僕の居場所がない、
本当の自分がどこにもないと、まったく同じことを繰り返すばかりで、
僕が以前に話したことを憶えているのかどうかすら疑わしいくらいだった。

人生の苦悩について考えるのに役立ちそうな本をその手に渡しても、
彼らはそれを持ち帰ろうとはせずに、占いの本がいいと僕に言うのだった。

まして日々原稿用紙に向かうことなど、頭の隅にも残っていないようだ。
彼らは白馬の王子様が来てくれないと言って
拗ねている幼児と何ら変わるところがないように見えた。

彼らが時折僕を訪ねてくるのは、
僕なら無条件に褒めてくれるからに過ぎなかった。

彼らは苦しい、寂しい、居場所がないと言っていながら、
決して自分自身を変えようとはしなかった。

自分は何故こんなに苦しいのかと考えることもしなかった。


彼らはただ

「愛され認められ称賛されるべき自分を誰も理解してくれない」

と言うだけである。

悪いのは、回りの他者と社会であって、彼らは被害者なのである。

訴えている本人は自分の苦しさに囚われてしまっているので決して気づかないが、
彼らを苦しめている原因が高い理想や人格的成長の責務でないことは、
間違いないだろう。


 文学者たちは人格の成長を信じ、
その過程に生じる絶望と苦悩と希望を描いてきた。
如何ともしがたい現実をいかに受容して
自分自身を超克するかとの問いに苦悶する青年を描いてきた。

しかし彼らは、そのような物語を必要ともしないのだ。
彼らには、それを「ニヒリズム」と呼ぶのだと言ったとしても、
その意味を分かりはしないだろう。

「自己愛的絶頂感」と分析して見せても、理解することはないだろう。
「自分自身を大切にするべきだ」と、僕は何度も何度も言ったが、
彼らはその言葉を

「私はもっと求められ認められ称賛されるべきだ」

という意味にしか受け取らない。
高い理想を掲げて、自分自身に与えられた
宿命とも言うべき現実を乗り越えていくべきだとは、決して考えない。
自己実現などは単なる副産物に過ぎないのだと説いても、理解しようとはしない。


最近「新型うつ」と呼ばれる心の病が急増して、
従来の鬱病と合わせると患者数は百万人近くにもなると聞く。

自殺者が三万人、報告される児童虐待が三万件、
DV、クレーマー、無差別殺人など、現代が抱える心の問題は深刻である。

「人間如何に生きるべきか」

を問わなくなった僕たちの時代は
自分の存在の根拠も目的も責任も見出すことができなくなって、
それに起因する屈辱と憎しみに心を支配されているようだ。

彼らが閉じ籠りながら見詰めているのは、
眩いスポットライトを浴びて輝いている本当の自分という幻影である。

だが、スポットライトは永遠に点灯しないし、
白馬の王子様も決してやっては来ないのだ。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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