桑の実
人は一体いくつの頃から巡り来る季節の変化をその身に覚えるようになるのだろうか。
夜、一人画室に座って筆を走らせていると、
五歳になる息子が大きな足音をさせながら階段を上がって来て、
「雨だよ」
と、言う。
絵を描くことに丁度疲れを覚えはじめていた僕は
手を休めて窓際に寄り、息子と二人並んで庭を眺めおろす。
庭に縁側からの光が漏れ出ていて、
楓や松の木々が絹糸のように
細い雨の中にぼんやりとその姿を浮かび上がらせている。
毎朝夕飽きるほど眺めているはずなのに、
雨を受けた木々はまるで初めて見るように美しい。
僕は隣に立っている息子のことも忘れて、
しばし呆然と雨の戸外を眺め続けていた。
すると、
「もう、つゆだね、お父さん」
息子は僕の目の前に顔を突き出して来て、嬉しそうに言う。
おそらく、昼のうちに誰かから「つゆ」という言葉を聞いてきて、
生まれて初めて憶えたその言葉を僕に言ってみたかったに違いない。
「難しい言葉を知っているね」
僕が言うと、息子は一層顔を輝かせて、
「うん、この前のつゆには、蛍とりに行って、花火をしたね」
と、去年のこの時期にたった一度
近くの小川に出かけた夜のことをはしゃいだ声で話し始める。
旅行はもちろん海水浴にさえも連れて行かず、
いつもいつも家の中に閉じこもっている僕が
気まぐれに出かけた散歩に過ぎない蛍とりが、
そんなに楽しい思い出だったのだろうか。
「子供より親が大事と思いたい・・・」
太宰の言葉が浮かんで、胸が痛んだ。
しかし、言い訳に過ぎない気もするが、
家族サービスと称して休みのたびに
観光地や遊園地に出かけて行くことが
子供の心を豊かに育むわけでもないだろう。
大きな旅行や豪華な玩具は
確かに好奇心を満足させ興奮を齎してくれるだろうが、
親と子の心を繋ぐわけではないだろう。
感情は、日々の生活の中で培われる。
巡る季節の中で毎日々々繰り返される何も変わったことのない
当たり前の日常の生活こそが子供の感情を養い、
親と子を繋ぐのだと僕は考えている。
僕の胸の奥底に残っている思い出は、
旅行や娯楽やプレゼントなどではなく、
季節ごとの取るに足りない出来事ばかりである。
姉と二人で納屋からスキーを引っ張り出してきて、
近くのお寺で滑ると泣いたこと。
何かの用事で丁度家を訪ねてきた親戚のおじさんに
頼み込んで大きなかまくらを作ってもらって、その中で餅を焼いて食べたこと。
近くの山での花見の帰りに山羊を貰って帰ったこと。
捨て犬を拾ってきたこと。
裏庭の大きな盥で行水をしたことなど、
自然の中で過ごした少年の頃の出来事は
今でも忘れられない思い出として心の深いところに息づいている。
そして、僕たち兄弟の後ろにはいつも父母と祖父がいた。
「ことしも、蛍を見に行こうね」
僕は息子に約束をした。
そう言えば、父が僕に祖父との思い出を語って聞かせてくれたことがあった。
家の近くの畑に桑の木が何本か残っていた頃のことだ。
かき餅や熟し柿などはあったが、
お菓子というようなものはほとんど買ってもらうことのなかった僕たちは
毎日のように近くの家の庭や畑や山を駆け巡って、
栗や杏や柘榴など、口に入るものなら何でもという具合に取り回っていた。
そうしたある日、仲間の一人がそれまでずっと見過ごしていた木を指差して、
「これ、食べられるんだって」
と、言い出した。
おばあちゃんが教えてくれたというのである。
僕たちは互いの目を見ながらその赤黒い実に手を伸ばした。
恐る恐る口に含むと、甘さと渋さと酸っぱさが喉の奥まで広がっていった。
経験のない、奇妙な味だった。
「桑の実って言うんだ」
食べられると言い出した仲間が果実の名前を言った。
美味くて仕方がないとはとても言えはしなかったが、
チョコレートもバナナも、その名前だけしか知らなかったような僕たちに、
これで食べるものが一つ増えたのだった。
名前は「桑の実」。
その夜の食事のとき、僕が自慢げに新しい食べ物の話をすると、
父は、福井が絹織物の産地であったことや、
どの農家も一昔前までは蚕を飼っていたことなどを教えてくれて、
その後、祖父に連れられて桑の実とりに行ったという話をしてくれた。
父の母親は心臓が悪く、父がまだ小さな頃に他界してしまったのだが、
その晩年の何年間かは床に寝たきりだったらしい。
祖父は鍛冶の仕事のかたわら炊事をし、
洗濯をし、なおも誰かから「心臓には桑の実がいい」と聞かされると、
小さな父の手を引いて、近隣の村までそれを取りに出かけて行ったそうである。
そして、夜。バケツ一杯に取ってきた桑の実を棒で潰してはジュースにして、
一升瓶に詰め込むのだ。
初夏の果実を秋にも冬にも病床の祖母の口に入れてやるために。
「手もシャツも、紫色に染まってしまって」
と、父は話してくれた。
病床の祖母と、その祖母のために桑の実を潰している祖父の姿が
父の目には見えるのだろうかと、僕は思った。
その日からもう幾年過ぎたろう。
祖父の思い出を語ってくれた父は祖父の死んだ年を越え、僕も息子を持つに至った。
これまでの来し方には様々の喜びやそれと同じくらいの悲しみがあって、
それらのほとんどすべてを忘れてしまったが、
この桑の実の話は忘れずに憶えている。
もう少し息子が大きくなったら、桑の木を一緒に見に出かけて、
父が僕にしてくれたように、祖父の話を聞かせてやろうと思うのだ。
息子の心の中に一本の桑の木を植えておいてやろうと。