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宝鐸草

  五月に入って間もなく、庭の宝鐸草が花をつけた。

友人が来ると電話があったので、摘んで籠に活け、床に飾った。
電燈をつけない座敷は薄暗く、肌寒かった。
床の前に腰をおろして眺めていると、
宝鐸草という名を初めて聞いた夜のことが思い出されてきた。

春とは言え、その夜も寒かった。


  それは僕が大先生とお呼びしていた鈴木哲雄さんのお宅を訪ねた時のことだった。


  玄関で「よく来たな」と、いつものように迎えられて、
奥の離れの座敷に導かれた僕は勧められるまま座布団に腰をおろし、
改めてまた頭を下げて挨拶をした。大先生はこれもまたいつものように、

 「お菓子をどうぞ」

と、抹茶を点てて下さった。
茶碗は唐津だった。

僕は菓子を食べて、茶を飲み、茶碗を掌で転々とさせて上から横から、
そして下から眺めて、大先生の前にそれを返した。

僕は当時も今も茶の流儀を何も心得てはいないが、
僕の為に整えて下さった茶と菓子と茶碗を十分に味わって、
もてなしに対する感謝と敬意を伝えることができた筈だった。

大先生のお宅を訪ねるようになってから五六年が過ぎていて、
僕は、客人として迎えられた時に如何に振る舞うべきかをもう既に習い憶えて、
落ち度はない筈だった。
僕は素直で従順な若い弟子である筈だった。
しかし、大先生は僕が測ったほどには甘くなかった。

 「この花を知っているか」

大先生は僕の背にした床を指して言うのだった。

僕は振り返り、床に向かって座り直した。

籠に活けられたそれは初めて見る花だった。
名前を知る筈もなかった。
僕は、

 「いいえ」

と答えた。
知ったかぶりをすることは、
知らないと正直に答える時の数倍の痛みを招くことになる。

 「この花の名が何と言うか、
 この籠が何たるかを知らないことは、まあ、好いだろう。
 知らないこと自体は悪いこととは言えないだろうからだ。
 しかし問題なのは、君がこの部屋に入って来て、
 床の間に活けてある花にも掛け軸にも目を遣ることをしないということだ。
 見たことのない軸、見たことのない花が目の前にあるというのに、
 それに気づかない、意識を向けない。
 それが何を意味しているか、分かるか」

大先生は言葉を切って、鋭い眼差しで僕を見るのだった。
僕は答えることもできずに、ただ首を横に振るしかなかった。

 「美に対する繊細な意識が欠落しているのだ。
 君の感受性はその程度のものでしかないということだ。
 君は、花は美しいと思って、何も疑わないのだろう。
 『花は美しい』のではない。
 美しい花があるのだ。美というのは概念ではない。
 自分自身で見出さねばならないものなのだ。
 そんな意識では何も見ていないのと同じだ」。

大先生は小林秀雄の引用だがと、そのようなことを話された。

しかし僕には、「お前は愚かで鈍い上に、勉強が足りない」
と怒られているということしか理解できなかった。

恥ずかしいことに、
僕には何故そこに概念という言葉が出て来るのかさえも分からなかった。
僕はただ大先生の語気の強さに押されるままに、

 「はい」

と相槌を打つより他、仕様がなかった。
大先生はいよいよ激しく続ける。

僕は何を置いてもすぐさまその場を逃れたかった。
物事を知らないだけではない、
人としてのまともな感受性すら僕は持ち合わせていないのだと、
恥ずかしく、惨めでかなわなかった。

太宰ではないが、「生まれて済みません」と叫んで、
その場を逃れたかった。

しかし、そんなことの許される筈はなかった。
大先生はもうこれ以上に堪えることができないと恥じている僕を更に鞭打つのだった。

  「この花は『ほうちゃくそう』と言うのだ。どんな字を書くのか、分かるか」

それも、分かる筈がなかった。

 「『宝鐸草』と書く」

僕はその漢字を記憶にとどめて、頭を下げ、

 「はい」

と、意味もなく答えた。
先生の言葉はますます流暢になって行った。

 「季節ごとに咲く花がある。
 花は人間の為に咲くのではないだろうが、
 その花に心を貫かれ、人生の何たるかを我々は感じることもできるし、
 感じないこともできる。
 それを美しいと震えることもできるし、そうしないこともできる。
 「花は美しい」などと世俗の価値観を鵜呑みにして、
 それに甘んじている限り、人生の何たるか、
 人間の何たるかを捕えることはできないのだ」

大先生は芭蕉の『笈の小文』の冒頭部分を引用して話して下さったが、
しかし僕には益々分からなくなるばかりだった。
僕は頭を垂れるだけで精一杯だった。
大先生は大きな溜息をついて、

 「今度の日曜は、山に行くか」

と、続けられた。
形は問いかけだったが、これは従うべき至上の命令だった。
僕には選択する余地は与えられていなかった。

 「はい」

と、僕は即座に答えた。 
しかし、山に行けば、

 「この花は何と言うのだ。この草は、この木は」

と一日中問われ、僕は、その度ごとに

 「知りません」

と、何も知らない己を恥じて答え、そしてまた、

 「お前は何も知らない愚か者だな」

と否定されることは必定だった。

僕は、どれほど学び、どれほど努力しても、
決して大先生に追いつくことはできないからだ。


  大先生が僕を怒り、愚かさを咎めるのは花についてばかりではなかった。
大先生は骨董についても禅についても文学についても美術についても、
僕に問い、僕が「知りません」と答えると、
「お前は何も知らない愚か者だな」と、僕を鞭打つのだった。


 若い僕は週に一度大先生のお宅を訪問することを習わしとしていたが、
深夜にお宅を辞して家に帰ると、辞書を引き、事典を調べ、本を読み、
また翌日からは一年中床の間に花を欠かさぬよう庭に山野草を植え、
骨董を買い、花を活け、茶を点てた。

知らないこと、分からないことが恥ずかしくて堪らなかった。
時間がないとも、若いとも、分野が違うとも、仕事が忙しいとも、
そんなことを言ってはいられなかった。

何も知らず、感受性が鈍いという事実は揺るがすことのできない事実だった。

僕は何が何でも、激しく学んで、大先生の高みに至らねばならなかった。
垂直に切り立つ崖を上らねばならなかった。

憧れと尊敬と、そして屈辱が僕を強いた。

若い僕に寛ぎ遊んでいる暇はなかった。
 
 
  大先生は、今は亡き人である。
亡くなられたのは何年前のことなのか、そんなことももう覚えてはいないが、
薄暗く肌寒い座敷に一人座って床の宝鐸草を眺めていると、
三十年も前のあの離れの座敷が思い出されてきた。

そこにはどの家にも備えてあるであろう卓袱台もテーブルもなく、
座布団は大先生のすぐ前に置かれていた。
鼻と鼻が触れそうな具合だった。

 「いつまでたっても、お前は焼きが甘いな」

そんな大先生の声が聞こえてくるような気がした。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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