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「何ものかになる」ということ(一)

  「何ものかになりたい」と望んで、若者は専門学校や大学に進学したり、
料亭や寿司屋やパン屋に弟子入りしたり、起業したり、上京したり海外に渡ったり、
都会や地元の企業に就職したり、各々の置かれた立場や将来の展望などを考えて、
就くべき職業を選択する。


  そのように明確な選択をすることができない若者は、「自分探し」などと呟いて、
自分にはまだ何が適しているのか分からず、目標も見出せないからと、
アルバイトなどをして食いつないだり放浪の旅に出たりして、「何ものか」になる明日を夢見る。


  しかし自分がどのような職業に適しているのか、何をしたいと望んでいるのか、
何をしたら「何ものか」になることができるのか、その問いの答はいづれにしても容易には見つからない。
選びに選んで希望する職に就くことができたとしても、そこで輝く存在になることは難しい。
どこにいても、何をしても、これこそ本当の自分だという確信を持つことができない。
どんな選択をしようとも僕たちは、「何ものか」になったのだという満ち足りた思いに浸ることができない。


  僕たちは光り輝く憧れのビル・ゲイツやジュリア・ロバーツやロバート・デニーロや
マイケル・ジャクソンになることはできない。
長嶋茂雄にも、小泉純一郎にも、タモリにも、山中教授にもアインシュタインにもデカルトにも
ダビンチにも漱石にも、芥川にもAKB48にもなれはしないし、もしなれたとしても、
僕たちはそれが望んだような「何ものか」であるとは思えないからだ。
「これこそ本当の自分だ」とは思えないからだ。


  日本中から、或いは世界中から寄せられる憧れや賞讃の拍手、富、名声、地位、有名性。
それらを手にすることは誰にもできないと言えようし、たとえそれらを得たとしても、
実現したものは、曾つて「何ものかになる」と望んだものではないだろう。
「夢は諦めなければ必ず叶う」などというのは、それを手にしたものの語るまことしやかな
大嘘であって、「何ものかになる」との、若者の望みは決して叶うことはない。
誰一人残らず僕たちは何ものにもなれない己に向きあわされるだけである。
僕たちは必ず地位も名誉もお金も有名性も何一つ獲得できない惨めな現実に
向きあわされることになるのだし、もしそれらを得ることができたのだとしても、
得た暁には、「そんなものが一体何になるのだ」と、龍之介のように、
絶望の軋み声を吐くことになるだろう。
近代的自我の呪詛は僕たちが考えているより遥かに深く僕たちの心を蝕んでいる。


  しかし如何に書いてみても、僕の文章力では中々ことの本質を貫くことは難しい。
萩原朔太郎の散文詩の全文を紹介することの方が正鵠を射るだろう。
以前に書いた文章の中で一度引用したことがあるが、今再び『詩人の死ぬや悲し』を引こう。


  『詩人の死ぬや悲し』

  ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、
死の暗黒と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名聲がある。」


  ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、
真劍になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞かみやで、いつもストイツクに感情を隠す男が、
その時顔色を變へて烈しく言つた。
「著作? 名聲? そんなものが何になる!」


  獨逸のある瘋癲病院で、妹に看病されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチエが、
或る日ふと空を見ながら、狂気の頭脳に記憶をたぐつて言つた。
――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。


  あの傲岸不遜のニイチエ。自ら稱して「人類史以来の天才」と傲語したニイチエが、
これはまた何と悲しく、痛痛しさの眼に沁みる言葉であらう。
側に泣きぬれた妹が、兄を慰める為に言つたであらう言葉は、おそらく私が、
前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。
そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」


  ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。
トラフアルガルの海戰で重傷を負つたネルソンが、軍醫や部下の幕僚たちに圍まれながら、
死にのぞんで言つた言葉は有名である。
「余は祖國に對する義務を果たした。」と。
ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷大將やの人人が、おそらくはまた死の床で、
静かに過去を懐想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
「余は、余の為すべきすべてを盡した。」と。そして安らかに微笑しながら、
心に満足して死んで行つた。


  それ故に諺は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。
だが我我の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉で、
もつと悩み深く言ひ換へられる。
――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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