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「本当の私」

 シンデレラのように、残して来た靴を頼りに王子様は
白馬に乗って駈けつけて来てくれて、私を救い出してくれなかった。
私には、私の為にすべてを懸けて働いてくれる小人もいなければ、
今まさに首を刎ねらようとしている私の為に千里の道を駈けて来てくれる友も、いなかった。


 私は美人に生まれつかなかったし、頭が良い訳でも笑顔が可愛いのでも、
走るのが早い訳でも絵がうまい訳でも音楽的な才能が備わっている訳でもない。
夫は、頭が悪いのではないかと日々疑わなければならないほどの
感受性しか持ち合わせていないので、
優しくもなく、賢くもなく、私を気遣う繊細さもありはしない。

そもそもそんなことを求める方が無理というものだ。
子供たちもまた、可愛いには違いないが、
どこの子供とも同じように畏れも恥も知らない、そう、夫の複製のようだ。

そしてそれは会社に行っても変わらない。
同僚は誰も同情心など持ち合わせない人形のようだし、
上司は怖ろしいほどに鈍感な馬鹿だ。

そしてその上、私のしている仕事も、
バケツの水をもう一つのバケツに入れて、
一杯になったらまた元のバケツに注ぐというような意味のないもので、
そこには私でなければならない理由など、どこにもありはしない。

毎日々々毎日、私は夫のパンツを洗い、おざなりの食事を整え、
休日には雑誌で見てインターネットで買った服を着て、旅行などし、
誕生日だと言ってケーキの蝋燭の火を吹き消して笑ったりなどしているが、
本当の私は一度だってそんなことを喜んだり笑ったりしたことはない。

いつだって、どこでだって、私はサービスをしている。
目の前の相手が喜ぶように、自分自身を捧げ出している。

私が私としていきいきと輝いて、私の存在に意味があると思えるような、
そんな場所はどこにもありはしない。

誰も、本当の私を分かってくれはしない。
誰も、「君は素晴らしい」と、私の肌を撫で、乳房を舐め、
骨が砕けるほどに抱きしめてはくれない。

すべての人が遠くにいる。
おべっかいやお世辞や慰めや賞讃や、
人は時に応じて色んな言葉を掛けてはくれるが、
誰の言葉も本当の私の胸を震わせはしない。 


 少女の頃から夢見ていた夢は何一つとして叶わなかった。
期待も望みも企てもすべては破れ、信頼さえも悉く、ひとつ残らず裏切られた。
私の人生は虚しく、悲しく、淋しく、辛く、惨めで、
昨日とまったく同じ意味のないことの繰り返しを繰り返すだけの日々だ。


 私は、この心なき世を心の底から軽蔑している。恨み、憎んでさえもいる。
誰も誰も、何も何も、本当の私を理解せず、本当には必要としてくれないからだ。

輝かない自分、意味のない人生。
『現実原則』という心理学の用語があることを私は知っているし、
私が高慢で、拗ねて僻んで拗ねているのだということも分かっている。
だが、この私たちの暮らすこの世のどこに、
私が平伏し従うべき、本当の私を導く光があるのだろう。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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