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「絶望の、その先」

 若い頃からずっと今に至るまで、

「夢は破れ、望みは絶たれ、企ては挫かれる。
信頼は裏切られ、願いは拒まれ、期待は挫かれる。
そして努力は報われず、忍耐は踏みにじられ、誇りは辱められる。
理解者は何処にもいはしない。軽薄さが人々の心を水蘚のように覆っているので、
人生は不条理に満ち、過酷で、悲しく惨めで侘しく、苦渋に満ちている。
人生とはそんな痛ましい思いを引き摺りながら、
ただ意味のないことの繰り返しを繰り返すだけだということを
とことん思い知らされるためにあるようなものだ。
それは風を追うように虚しい。
心は泥濘に沈み、或いは砂のように崩れる。」

このような思いを拭い去ることができなくて、人にもそう話し、
自分の絵のパンフレットにもそんなことを書いて、
個展の折にはそれを受付のテーブル上に並べてもいる。


 確かに、蚊に刺されたほどの苦労しかしたことのない者が、
まるでこの世の苦しみと悲しみを一人で担いでいるキリストを気取っているとも、
驕り昂ぶった自尊心の欲望をこの世で果たせぬことを僻んで拗ねているだけだとも思えるし、

「絶望という言葉を真に使うことができるのはドストエフスキーほどに望んだ者だけなのだ」

という森有正の言葉の確かさを分かっているつもりで、
僕の人生に対する嘆きはただ単に謙虚さの欠如なのだ。

自分自身の愚かさに死んでお詫びせねばならぬと真面目に考える夜も少なくはないのだが、
しかし、何万回となく反省してみても、思いはいつもこの考えに行き着く。

僕がどんなに考えの浅い、自尊心を肥大化させた傲慢な軽薄児に過ぎないのだとしても、
この、「人生は絶望である」ということは、揺るがすことのできない真実であると。

人は、その根源的軽薄さを免れることができないが故に、
人の世は絶望に満ちていると。


 先日、石川県の白山市で彫刻家の橋本和明氏と二人展を開いた時にも
僕はこの「絶望」について書いたエッセーを載せたパンフレットを
会場の机の上に乗せて置いた。

誠におこがましいことではあるが、
会場に来て下さった方々に絵を観てもらうだけではなく、
僕自身の考えを知って頂きたいと考えてのことである。
果たして、数名の方がそれを手に取り、持って帰って下さった。
僕にしてみれば、有り難いことである。


 ところが最終日の二日前に、
I先生という、画廊のご主人によればとても偉い日本画の先生が来られて、
展示してある作品を観られた後に僕のそのパンフレットを手に取り、
パラパラと読み始められたのだ。

僕は近づいて声をお掛けすることもできず、
相当な距離を置いて先生の動作をただ緊張して見詰めることができるだけだった。

だがその一方で僕は、
そんなに偉い先生が僕のエッセーを本気で読んで下さることはあるまいと、
僻みと諦めと期待の入り混じった何とも複雑で遣り切れない思いを抱えて、
画廊の壁の隅に身を寄せて、控えていた。


 すると、信じられないことに、先生はその僕に、

「ところで、この『絶望』の先はどうなるのですか?」

と、訊いて来られたのだった。

「絶望の先・・・」。

僕は、答えられなかった。

確かに僕は、

「絶望の裡に訪れる慰め」

とも、

「自然、或いは神さまの前に頭を下げて己を放擲する時、
僕たちは大いなる安らぎを得るのです」

とも、

「肝心は、人生をそのままに受容することです」

とも書き、この考えに間違いないと確信してはいたが、
まさか、八十歳を超えた大学教授の偉い先生に向かって、
そのようにお答えすることはできなかった。

背中に、冷たい汗が流れるのを覚えた。

僕は、声が震えないように自分自身を戒めながら、

「絶望しても、それでも、人生の側から呼びかけて来る、
義務と責任をその時その時に果たしていくことだけだと考えています」


とお答えするのが精一杯だった。
先生は、少しの間を置いて、

「そうですか」

とだけ言われた。

その声は落胆されたと言うよりはむしろ、

「そのようにしか言えないのだろうね、矢張り」

という諦めのような弱い響きだった。


 実は、そのI先生について僕は、来られる前に画廊のご主人から、
どのような先生で、今どのような状況に居られるのかを予め聞かされていたのだった。

先生は美大の日本画の教授で、今は八十歳を越えて退職されているが、
数年前に最愛のお嬢さんとそのお婿さんとを間を経ず亡くされたのだと。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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