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「意識に直接与えられたもの」

 何かを描こうとする人は、紙やキャンバスを目の前に置いて鉛筆や筆を動かす。
もし、何かを描きたいという欲求がないのなら、誰もそんな面倒なことはしない。
これは何の疑いも差しはさむことのできない明白な道理である。


 ところが、絵画教室の生徒さんの多くは、

「何を描いたら好いんですか?」

と、一枚の絵を描き終えるたびに、そう訊いて来る。

僕は腹立たしさが声にも表情にも出ないように自分を押さえて、

「何でもいいのですよ。美は、ここにもそこにも、
あちらにも、どこにでも転がっているんです。ですから、
あなたの胸を震わせるものだったら、何を描いても好いんです。
良い絵などというものは何処にもないのですから。」

と、答える。

しかし、僕がもう何度繰り返したか分からないほどに繰り返している
この答を受け容れることが厭なようで、生徒さん達は必ず、

「何でもいいと言われても、何が良いのか、分からないのです。」

と、反論して来る。

僕は辛抱強く、説得を試みる。

「何が良いか、悪いかでなく、あなたが描きたいと思うもの、
それをそのまま描けばいいだけのことですよ。」

と。これでもう十分な筈だ。
だが、それでも生徒さん達は納得せずに、同じことを言い続ける。

「何でも好いと言われても、何を描いたら良いのかが、分からないんです。」

僕に求められているのは、ただ、辛抱である。

「大きな衝撃を与えられたとかでなくても、日頃の生活の中で、
これは美しいとか、素敵とか、そう思うことがあるでしょう。
洋服を買う時に、これは好いとか駄目だとか思うでしょう?」

「僕たちは悲しいかな、天才画家のように
雷に打たれて死ぬほど心が震えてかなわないというようなことがないので、
ほんの小さな震えでもいい、心が動いたそのことに息を吹きかけて、
燃え上がらせて、それを描くのが好いのだと思いますよ」

と、僕は優しく言う。

すると生徒さんは声を大きくして、

「この前上高地に行ったときの写真があるので、それを描きたいんですが」

と、言い、或いは、

「花が描きたい」

と、言い、

「うちの猫が死ぬほど可愛いので、それを」

と、言う。

花を描くことが駄目だと言うのではない。
旅行した観光地の風景を描くことや愛猫や愛孫を描くことが悪いと言うのでもない。
それはそれで十分なことである。

しかし問題は、僕は隣家のおじさんの書いた日記を読みたくはないし、
そのお嬢さんのピアノの演奏も聴きたくはないし、
奥さんの描いた絵も見たいとは思わないのだ。


 しかしそれにしても、この問題は難しい。
それはただ単に絵を描く側についてだけでなく、
芸術一般を観賞する側についても言えることである。

ベルグソンの論文の表題、(概念でなく)、
「意識に直接与えられたもの」を捉え、
理解し、表現することは甚だ困難なことなのだと、
この歳になって改めて考える。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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