「明るい絵、暗い絵」
画廊が開いてくれる個展でも、愚息と一緒に開く企画展でも、来られた方の多くが
「暗い」
と、或いは
「明るくなりましたね」
と言う。
僕の絵は明るいのか、それとも暗いのか、
人が下さるその言葉が何を意味しているのかを僕は理解しているつもりで、
尋ねられる度に僕は、
「そうですね」
と答え、その後に続けて、
「人生は堪え難く絶望的ですからね」
と言い、または、
「退職してストレスから解放されたから心が軽くなったからですかね」
などと、それらしいことをお話しする。
しかしそれはお愛想でもなければ嘘でもなく、どちらも僕の心情の真実ではあるのだ。
だが、しかし、僕はいつも、絵が「明るい」とか「暗い」という
当たり前のように固定化されている言い方に違和感を覚えてしまうのだ。
何故なら、僕の絵は明るいか暗いかで言うなら、暗くもあり、明るくもあるだろうからだ。
描いている当事者としてはそのどちらかを選ぶことはできない。
正直に、恐れずに言うなら、明るくても暗くても、
そんなことはどうでも好いではないですかというところである。
もちろん、絵には明るい印象を与えるものと暗いそれとがあることは確かで、
僕も普段から他人の絵を見てそんなことも言っているのだが、
申し訳ないことに、事が自分の絵に及ぶと、
「違う」
と叫びたくなってしまうのだ。問題はそんなことではなく、
ただただ「高み」と、「深さ」だろうと。
若い頃に読んだゴッホについての評伝の中に、
ゴッホが画商に絵を売りに行った時のことが書かれていた。
「セザンヌのような明るい絵が描けないものですか」
と、画商は懐からしぶしぶ二フランを取りだしたと。
ゴッホに自分を重ねているようで誠に心苦しいのだが、
ゴッホが描きたかったのは、明るい絵でも暗い絵でもなかった筈だ。
画商がそう評し、注文をつけるのはよく理解できるが、
しかしゴッホはそのようなこととは全く関係のない次元の違うことを描きたかったのだと、
僕には思われる。
では、ゴッホが描きたかったこととは何なのか。
僕には、人の生きる現実のうちに潜む真実だったのではないかと思われる。
それは、辛く悲しく苦しい、心の枠を変えてしまうほどに堪えてかなわぬ
冬の寒さだったのだろうし、春の到来を告げる花を見る喜びと希望だったのだろうし、
狂おしいほどに求めた果てに裏切られた恨みと憎悪と軽蔑だったのだろうと思われるのだ。