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「人生の無意味感と自己実現(四)」

 すべての生命の根源には「生命の躍動・意志」が備えられていて、
生命をより高く、より広く、より深く生きよと促し、留まることなく推し進めていると
ベルグソンの思想を齧ってそれを最近確信するようになったのだが、
僕自身の心の内にその推進力があると自覚的に認識することはできない。

それは植物や動物や虫などの生命体をつぶさに見て、そうなのだろうなと類推しているのであり、
自分自身の心の動きを内省して考えることである。
それは「生命力」と言われている力であり、誤解を恐れないで言うなら、
それは「愛への衝動・希求」という言葉で表すことができるかもしれない。


 人間以外のすべての生命はその生命を生命たらしめている
「生命の躍動・意志」の推進力のままに自分の存在を伸張するが、
人間は悲しいことに、そんなに単純には自分自身の根源的意志に素直に従うことができない。

ただ単に生きることだけでは、自らの内の最も深いところからの促しを満足させることができない。
植物のように、微生物のように、虫のように、動物のように、その推進力のままに生きることができない。


 何故なら、「自尊心」がそれを阻むからである。
しかし何故それが生命の意志に素直に従って生きることを阻むのだろう。
何故自らを疎外するのだろう。 

 自尊心は、そのレベルが低いか高いかの差はあっても、すべての人に備えられていて、
それが人の生きることのすべての思いや行為を選択して決定する。
それはその人の人格を定める。

 自尊心は人の心の最も深いところにあって、
すべての生命を貫流する「生命の躍動・意志」を受けて、その促しを実現しようとするのだが、
その自尊心は何よりも「意味」を求めるので、
全き素直さとまったき謙遜になることを損なわれてしまうのだ。

そしてこれこそが人を永遠に苦しめてやまない源なのだろう。
生命の躍動・意志、あるいは愛に従うなら、
人は孤独の寂しさや悲しみや辛さや苦しみから自由になることができるのだろうが、
自分自身の存在に「意味」を求めるところに問題が生じてくる。
それは聖書の「創世記」に書かれている悪魔の囁きに自ら欺かれた、
人間の根源的罪なのかも知れない。

 
 人は意味を求める。自分自身の存在に意味を求める。
より高く、より広く、より深く生きんと求めるのは他の生命と同じではあるが、
人の心の根幹に据えられた「自尊心」は、他の生命体とは異なって、意味を求める。
自分自身の存在が意味あることを求める。


 その「意味」とは何か? それは「価値あること」と言えるだろう。
己の存在に価値があるなら、己の存在に意味があり、人は満たされる。
至福を感じる。生まれて来て、今を生きていることに感謝もささげることができる。
根源的な希求は満たされる。


 だが、意味感を齎してくれる価値とは何か? 僕たちは何を価値と考えているのか。
何を得たなら、僕たちは幸せになれると信じているのか?

それは他者の役に立ち、必要なものとされて、認められ、求められることであると言っても良いだろう。
では、認められ、求められることとは何なのだろう? 

それは、地位と名誉とお金と有名性を確立することである。
それこそがこの世の価値の基準なのだから、
僕たちはそれを手に入れることで自尊心を満足させようとする。

それを獲得することで自分の存在の意味を得ることができると考える。
教えられた価値はそこにしかないのだから。
自己を実現して、価値を得ることでしか自分の存在の意味を確信することができないのだから。

その地平に於いては、自分の存在の意味は、
他者との相対的な関係のうちで初めて成り立つことになる。
人より優れているか、人より地位を確立しているか、人から尊ばれているか、
お金持ちか、有名か、愛され求められているか? 

僕たちはそれを目に見える形で証明しなければならない。
そうしなければ、意味は獲得できないのだ。 


 僕たちの自尊心は自分一人で、自分自身の存在には意味があって、
それは大切で尊ばれるものだと確信することができない。

ドストエフスキーの『罪と罰』や『地下生活者の手記』の主人公が自分を天才だと信じて、
自分の存在こそは重要なのだと如何に信じようとしても、それを確信できないように、
「存在の価値」や「意味」は他者の支えなしには成り立たない。
自尊心は世の価値の基準に依っているからである。


 もちろん、己に満ちて自惚れているナルシシストは正しく自分自身を認識することができないので、
自分は優れて意味ある存在だと死ぬまで信じて疑わずに生きて行くだろうが、
誠実に意味を求めるまっとうな理性を備えた人には分かるだろう。

人間の存在の意味は、他者との関わりに於いて、
その支えによって初めて成り立つということを理解するだろう。


 だから自分自身の存在を意味あるものにしたいと求める自尊心は他者との関わりに於いて、
認められ、求められ、褒められたいと望み、また人の役に立って、人を愛し、求め、
褒めたいとも望む。
まさに、自分自身を愛するように、人を愛したいと望むのだ。
それは生命の根源的な意志だからである。死ぬほど愛してほしいと求めるのだ。


 ところが、僕たちは他者との関係に於いて自分自身を価値あるものだと
証明しなければならないという誠に残念な課題を背負わされている。
自尊心を持たない植物や動物は自らの生命の意志のままにその自分を生きれば良いのだが、
自尊心を持った人間は存在の意味を証明しなければならないのである。


 神に創造されて、神の求めるところに従って信仰に生きる人には、
その存在の意味も目的も規範も与えられていて、全き謙遜さの内に生きることができるだろうが、
神を信じない僕たちは自分自身で自分の存在の意味を作り上げなければならないのだ。

他者との関わりの中で、他者に認められ、求められ、価値あるものにならなければならないのである。
それが証明できなければ、自分は何の意味も価値もない存在、死すべき存在になってしまう。
自分自身を呪い、否定しなければならなくなってしまう。
そして否定され裁かれる自我は虚無に導かれざるを得ない。
被害感に逃れざるを得ない。
自分自身を氷の部屋に押し込めて、価値のない自分を僻んで拗ねて、呪うことしか道はない。


 だが、自分を正しく認識できない自惚れ屋は別として、
僕たちはそのような自己実現を果たすことは決してできないのだし、
たとえ世の称賛を得、巨万の富を得て有名になったとしても、
それでもまだ僕たちは足りないのである。

「君は偉大な著作を著し、すべての名声を得ているではないか」

と言う萩原朔太郎に、

「そんなものが一体何になる」

と、絶望の怒りを返した芥川のように、世の地位や名誉やお金や有名性は人を満たしはしないのだ。

世の価値の基準は、生命の躍動・意志ではないようだからである。
自己を実現することで自身の存在の意味を証明すること、
現代の僕たちはそれこそが自分の存在の価値であり、意味だと信じ込んでいるが、
どうやらそれは必ず虚無へと導く道なのだろう。
僕たちは誰一人、自己実現などできはしないのだから。
その道は自分自身の自尊心を肥大化させて、己を実現できない屈辱に苦しめられ、
被害者意識で自分を覆って、自分自身を裁いて、
他者を軽蔑して憎むことにしか僕たちを連れて行ってはくれないのだ。

それは意味と謙遜さと愛とに最も遠いところに自分自身を置くことでしかないのだろう。
僕は偉そうに人生を語れる資格を持つほどに優秀でも立派な人格を備えている訳でもないが、

「尊きもの、それなしに人は生きることも死ぬこともできない」

とのドストエフスキーの言葉は、真実なのだろう。

「人はパンのみにて生きるに非ず」

との言葉を、真に知らねばならないのだろう。
己に満ちた己。根源的軽薄に満ちた己。
これ以外では決してあり得なかった現実の自分を受容すること、
肥大化した自尊心を放擲すること。
向こう側から呼びかけ愛してくれているものに目を向けること、被害者意識に囚われて、
自分自身を呪うことは決して本来の自分自身になることではないと、認識すること。

「生まれて、済みません」

ではならないことを謙虚に素直に受け入れなければならないのだろう。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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