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「被害者意識と虚無」

 現代の時代精神とは何か、僕がこの命題を考え始めたのは二十歳の頃のことで、
それはドストエフスキーの「時代の子」という考えに惹かれてのことだった。
 
「時代の精神は若者に入り込んで、やがて全世代に浸透していく。
僕たちは時代の精神によって産み落とされた時代の子だ」。
 
僕はそれ以来四十数年間というもの、ずっとこのテーマについて考え続けて来た。
 
 
 「承認を求める」ことが現代の若者たちの特徴だという趣旨の本を数年前に読み、
そのあと、『自己愛過剰社会』と「秋葉原無差別殺傷犯の心理」について書かれた
心理学系の書物を読んだ。
 
これらの本に記された自尊心を巡る問題と若い頃から読んで来た
ドストエフスキーや漱石や太宰が追究したこととを併せ考える時、
百年の時代を越えてまるで予言されたかのような『時代精神』が浮かび上がってくる。
 
即ちそれは、「自由で、何ものからも独立した自己」という肥大化した自我が齎す虚無の精神である。
自分の存在の無意味感、尊いものも美しいものも真実なものも愛も、何もありはしないという、
底なし沼のような虚無感。
それが僕たちの生きる時代を水蘚のように覆っている。
そして、それを産むのは、被害者意識である。
 
 
 肥大化した自尊心。自分は何か重要な存在であるはずなのだと確信していても、
決して自分の生きる日常にあって輝きもせず、重要とも認められず、
褒められもしない現実に屈辱を舐めさせられる自我は、その原因を他者に求める。
自分が被害者だからだ。  
 
 
 あの男のせいで私はこんなにも惨めで苦しい日々を過ごさなければならなくなった。
僕を理解しないあの傲慢で人の心を理解しない愚鈍な上司のせいで本当の僕はスポイルされてしまった。
この馬鹿な女のせいで輝くべき本当の俺はこんなにも惨めで詰らぬ人生を送らねばならなくなった。
私を理解しないこの世の軽薄な人々のせいで私は傷つき、自分自身を呪って否定して、
淋しく悲しく苦しみに満ちた人生を忍ばなければならなくなった。
私がこんなにも苦しまねばならないのは、本当の私を理解しない世の愚鈍な人々のせいだ。
 
本当の私を誰も分かってはくれない。
誰も愛してはくれない。
誰も求めてはくれない。
 
 
 そのように考えて頑なに自分自身に拘る自我は、自分を氷の部屋に閉じ込めて、
理解されない己を裁き、呪い続ける。僻み、拗ね続ける。
 
 
 だが、リストカットやオーバードーズや自殺未遂を何度繰り返して己を呪い裁いてみても、
惨めで、淋しく苦しくてかなわぬ自分は、虚無の泥沼にいよいよ深く沈んで行くばかりである。
如何に自分を否定し、裁き、他者を軽蔑し憎んでも、虚無の苦しみは決して癒されず、
それはいよいよ鋭く心を荒廃させるだけである。
 
自分自身を過度に否定することは謙虚さに依るのではなく、
自分自身を過度に高いものと考える肥大化した自尊心に依るものだからだ。
 
それはマゾイズム、苦行僧の欺きだ。
自己の否定は必ず被害者意識を産んで、虚無へと僕たちを陥れる。
 
 
 
 己に満ちた現代に生きる僕たちにとって真に恐ろしいのは、被害者意識である。
己を偏重するあまりに、自らに向けられた愛にも共感にも同情にも心を閉ざして、
憎しみの内に自分自身を閉じ込めてしまうからである。
憎しむことは、苦しく、惨めだ。
愛を拒むことは、何より淋しく悲しく苦しいことだ。
 
 
 確かに、僕たちが望んだことは叶わない。
夢は破れ、理想は壊され、決意は挫かれ、願いも希求も決して成就したりはしない。
誰も誰も分かってはくれないし、信頼は裏切られ、期待は無視され、誇りは辱められる。
それが、僕たちの生きる現実である。
 
 
 だが、僕たちはそれでもまだ望むことができる。
認められず惨めでしかない苦しいだけの日々であるとしても、
僕たちはまた尊きものを求めて、望むことができる。
 
頑なに氷の部屋に閉じ籠って僻み拗ねて被害感で意識を埋めるのでなく、
自分のこころの最も深いところに潜んでいる「生命の根源的意志」に素直に従うなら、
謙虚に従うなら、僕たちは虚無を乗り越えて、自己も宿命も乗り越えて、
自分が今存在していることに感謝し、生まれて来たことを心の底から喜ぶことができる筈なのである。
 
向こうから呼びかけて来るものに目を向けるなら、愛されている己を見出して、
感謝の思いに満たされる筈なのである。
 
 
 他者を恨むこと、軽蔑すること、憎むこと、その道には虚無の苦しみしか待ち受けてはいないのだ。
 
 
 この軽薄で愚かでしかない自分自身を正しく愛して、向こうから求めてくれているもの、
その思いにまったき謙虚さを持って眼を向けること。
肥大化してしまった自我の時代を生きる僕たちが真に従わねばならないのは、
その「生命の根源的意志」なのではないだろうか。
何より怖ろしいのは、肥大化した自尊心の産み出す「被害者意識」なのだ。
 
「大袈裟なものには悪魔が潜む」。
 
 僕たちには実は、今、生きて在ることを心の底から喜び感謝するべき十分な理由があるのだ。
真に自分自身を愛すること。
そして、自分自身を愛するようにひとを愛すること。
その道が僕たちには開かれている筈なのだ。
愛されることを求めるよりも愛することが幸いなのだろうし、
受けるより与える方が幸福なのだろう。
 
取るに足りず、詰らない、輝きもしなければ称賛されることもない現実の己ではあるし、
そのことに屈辱を覚え、惨めさや虚無感に覆われもするが、
しかし、頑なな被害感に囚われず、向こうから呼びかけて来るものの声に耳を傾けて、
自分自身に与えられる義務と責任をコツコツと果たして行かねばならないのだろう。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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