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「承認を求める時代 - 自尊心と虚無 -(ニ)」


「自己の存在の無意味感という究極の苦悩を乗り越える道は必ずある筈なのである」

と前回に書き、そのまた前には自分の存在の意味を求めて僕たちは自己実現を図って
自らを価値あるものにしようとするが、
価値とは相対的な世の価値基準をそのまま映しているのであって、
それは必ず虚しさにしか僕たちを導かないものであると書いた。

そもそも僕たち人間の存在の「意味」というものと「価値」というものとは次元が異なるものなのだと。
 
 
 サルトルではないが、ナイフという物を例にとって、存在の価値と意味について考えてみたいと思う。
 
 ナイフは物を切るという目的のために、人間の意図をもって作られる。
だからそれは「切れる」という用(目的)を果たすことで、意味あるもの、価値あるものとなる。

ここでは、「価値」と「意味」とは同義である。
もしその柄が折れたり刃が欠けて使うことができなくなったら、ナイフは有用さをなくして、
「無価値」で、「無意味」な存在になる。
 
 この論理に間違いはない。誰しもが納得する理屈だ。
  
 サルトルはこの論理を人間に当て嵌めて、言う。
 
 人間は数億年という時の経過の中で偶然が積み重なることで自然に生まれて来たものであって、
神の意図によって作られたものではない。
だから、その存在には何の目的も価値も意味も先験的に与えられてはいないのだと説く。

しかも意図し創造する神は居ないのだから、僕たち人間を超えるものも、
僕たちを束縛するものもありはしない。
僕たちは自由で独立した平等の存在であると人間の権利の勝利を宣言する。
 
 僕たちは神の座に着き神に替って、自分で自分自身の目的を設定し、それを実現させることを企て、
企てを果たすことで初めて自らの存在の意味を獲得するという訳だ。

「自己を実現すること」、即ち、この世に於て社会的な価値評価を獲得して
「承認されること」が僕たちの存在の意味だということになる。
 
 他人に承認されること、称賛されること、輝くこと、求められること、愛されることが
価値あることであり、自分の存在が意味あることを証明する唯一の証拠だという訳である。

そうすることがアイデンティティー(自己同一化、自己証明)を確立して
本当の自分になることだという訳である。
そして、もしそうできなかったなら、柄の折れたナイフのように、
僕たちの存在には何の価値も意味もないという訳だ。
 
 
 確かにこの論理は間違いがないように見えるし、
僕たち殆どすべての人間はこれを信じて疑うことのできない至上の真理だと思っている。

神が死んだ今、誰もが自己を実現することだけが自分の存在の価値と意味を獲得することで、
幸せになることだと信じて疑わない。
 
 それを果たすことができないのだとしたなら、自分の存在には何の価値も意味もなく、
人生は虚しく悲しく、絶望するしかないと固く信じている。
それが果たせないなら、世界のすべては生きるに値しない、死ぬしかないと信じている。
(もちろん、このような自己認識を明晰にしているかどうかは、甚だ怪しいものだが)。
 
 親に愛して貰えなかった、兄弟に比べて自分は劣っていた。学校でいじめられた。
劣等生だった。不細工だった。恋人が出来なかった。優秀でなかった。一番になれなかった。
スポーツが出来なかった。音楽が出来なかった。希望する高校や大学に入れなかった。
部長にもなれなかった。馬鹿な上司。誰も私を愛してくれなかった。
マイケルジャクソンになれなかった。芥川になれなかった。ゴッホにもAKB48にもなれなかった。
貴女のすべてが恋しいと言う恋人に見せた裸の体を貶された。夫が馬鹿だった。
癌に冒されて入院しているというのに都会に出て行った息子は見舞いにすら帰って来てはくれない。
死ぬほど尽くして来たというのに、私の愛を男は当然のことと踏みにじる、
耐え難い淋しさに襲われて、助けてくれと求める私の手をうるさいと断ち切って、
いぎたなく惰眠をむさぼる夫、横着で自惚れ切った嫁。
 
 
 僕たちは望み、願い、夢み、企てたのだ。自分自身の存在の意味を求めて。
しかし、僕たちの現実は、このようなものである。自己実現の願いは必ず、潰える。
そして僕たちは、こんな願いや欲求や企てを実現できなかったことで、
自分自身の存在には何の価値も意味もないのだと、屈辱と被害者意識を昂じさせて、
潰された自分に囚われる。

自分を認めぬ世を恨み憎み、また、自己の企てを実現できなかった無価値な自分を裁き否定し呪う。

「すべては虚しい」「すべては不条理だ」と、心を閉ざして、
真っ暗な凍りついた部屋に自分自身を閉じ込めて、
自分を憐れみ、手首を切り、薬を大量に呑み、首を絞める。欝病に囚われる。
何も信じない、何も求めない。美しいものも尊いものも美も、誠実さも謙虚さも感謝も、
真実も善なることも愛もありはしない、誰一人として私を分かってはくれないのだと、
可哀想な自分に頑なに閉じ籠る。

私の存在には何の価値も意味もないのだ、すべては虚しいのだと、虚無の裡に蹲る。
そんな不条理な苦しみを苦しんでいる自分、死に臨む苦痛にマゾイスチックな恍惚を覚えて蹲る。
自分自身の苦しみ以外には何も見えない。何も感じない。
 
 それはまさしく、「精神の死」である。生きていながら実は死んでいる魂である。
 
 
 しかし、自分の企てを実現させることによって僕たちは初めて自分の存在の意味を獲得するのだという
僕たちが信じて疑うことのない信念は、本当に正しいのだろうか。
僕たちの存在は、ナイフと同じものなのだろうか。
僕たちは全き素直さと謙虚さをもって疑ってみなければならない。
 
 誰も私を分かってくれないという屈辱に身を焼いて被害者意識に囚われて、
人間は所詮自分だけが可愛いのだなどという実しやかな虚言に欺かれて、僻んで拗ねて、
美しいことも尊いことも愛も何もありはしないのだと嘯くニヒリズムの誘惑に欺かれてはならないのだ。
 
「死んだ神の座にあなたは着くことができるのですよ」
と、イエスに囁き惑わす悪魔の罠に欺かれてはならないのだ。
 
「汝の我欲・業がすべての苦しみの源なのだから、悟ってそれを捨てよ」
と言う立派そうな教えに欺かれてはならないのだ。
 
自己の存在の無意味感という究極の苦悩を乗り越える道は必ずある筈なのである。

  

「人生とは何か、人間如何に生きるべきか」を問い続けること、そして思い考え感じた、それら名状し難い混沌をキャンバス上に表すことが僕の生涯をかけた仕事である。表現方法としては、西洋の材料である油絵具に金箔、銀箔、和紙、膠など日本の伝統的素材を加えて、これまでにない新しい世界観を表そうと考えている。わび、さび、幽玄など日本文化の最深奥に流れている概念があるが、そういう概念を介さずに直接心を打ち貫く切実さを描きたい。ものの持つ本来の面目を。

前 壽則 Mae Hisanori

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